雌蜘蛛は真夏の日の光を浴びたまま、紅い庚申薔薇の花の底に、じっと何か考えていた。 すると空に翅音がして、たちまち一匹の蜜蜂が、なぐれるように薔薇の花へ下りた。蜘蛛は咄嗟に眼を挙げた。ひっそりした真昼の空気の中には、まだ・・・ 芥川竜之介 「女」
・・・たった今まで、草原の上をよろめきながら飛んでいる野の蜜蜂が止まったら、羽を焦してしまっただろうと思われる程、赤く燃えていた女房の顳が、大理石のように冷たくなった。大きい為事をして、ほてっていた小さい手からも、血が皆どこかへ逃げて行ってしまっ・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・熱い空気に蒸される林檎の可憐らしい花、その周囲を飛ぶ蜜蜂の楽しい羽音、すべて、見るもの聞くものは回想のなかだちであったのである。其時自分は目を細くして幾度となく若葉の臭を嗅いで、寂しいとも心細いとも名のつけようのない――まあ病人のように弱い・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・ 急に大きな蜜蜂がブーンという羽の音をさせて、部屋の中へ舞い込んで来た。お島は急いで昼寝をしている子供の方へ行った。庭の方から入って来た蜂は表の方へ通り抜けた。「鞠ちゃんはどうしたろう」と高瀬がこの家で生れた姉娘のことを聞いた。・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・たった今まで、草原の中をよろめきながら飛んでいる野の蜜蜂が止まったら、羽を焦してしまっただろうと思われる程、赤く燃えていた女房の顳こめかみが、大理石のように冷たくなった。大きい為事をして、ほてっていた小さい手からも、血が皆どこかへ逃げて行っ・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・ においが有るか無いか、立ちどまって、ちょっと静かにしていたら、においより先に、あぶの羽音が聞えて来た。 蜜蜂の羽音かも知れない。 四月十一日の春昼。 太宰治 「春昼」
・・・それが、役目がすむと直ちに枯死してしまった、あとは、次の世代を胎んだ雌のひとり天下になると見える。蜜蜂やかまきりの雄の運命ともよく似たところがあるのである。蜜蜂の雄虫は生殖の役目を果たすと同時に空中から石のごとく墜ちて死ぬ。かまきりの雄は雌・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・われわれの見た蟻や蜜蜂のように個体の甲と乙との見分けがつかなくならなければその「集団」はまだ本物になっていないと思う。 十一月十日、木曜。池袋から乗り換えて東上線の成増駅まで行った。途中の景色が私には非常に気にいった。見渡す限り平坦・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・一面に陳列された商品がさき盛った野の花のように見え、天井に回るファンの羽ばたきとうなりが蜜蜂を思わせ、行交う人々が鹿のように鳥のようにまたニンフのように思われてくるのである。あらゆる人間的なるものが、暑さのために蒸発してしまって、夢のような・・・ 寺田寅彦 「夏」
一 昭和九年八月三日の朝、駒込三の三四九、甘納豆製造業渡辺忠吾氏が巣鴨警察署衛生係へ出頭し「十日ほど前から晴天の日は約二千、曇天でも約五百匹くらいの蜜蜂が甘納豆製造工場に来襲して困る」と訴え出たという記・・・ 寺田寅彦 「破片」
出典:青空文庫