・・・彼はその思い出の中に、長蝋燭の光を見、伽羅の油の匂を嗅ぎ、加賀節の三味線の音を聞いた。いや、今十内が云った里げしきの「さすが涙のばらばら袖に、こぼれて袖に、露のよすがのうきつとめ」と云う文句さえ、春宮の中からぬけ出したような、夕霧や浮橋のな・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・それが昼間だのに、中へ蝋燭らしい火をともして、彷彿と蒼空へ現れた。その上不思議な事には、その竜燈が、どうも生きているような心もちがする、現に長い鬚などは、ひとりでに左右へ動くらしい。――と思う中にそれもだんだん視野の外へ泳いで行って、そこか・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
食うべき詩 詩というものについて、私はずいぶん長い間迷うてきた。 ただに詩についてばかりではない。私の今日まで歩いてきた路は、ちょうど手に持っている蝋燭の蝋のみるみる減っていくように、生活というものの威力の・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・ 傘をがさりと掛けて、提灯をふっと消す、と蝋燭の匂が立って、家中仏壇の薫がした。「呀! 世話場だね、どうなすった、父さん。お祖母は、何処へ。」 で、父が一伍一什を話すと――「立替えましょう、可惜ものを。七貫や八貫で手離すには・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・やがて、初の烏、一挺の蝋燭を取って、これに火を点ず。舞台明くなる。初の烏 (思い着きたる体にて、一ツの瓶の酒を玉盞に酌ぎ、燭に翳おお、綺麗だ。燭が映って、透徹って、いつかの、あの時、夕日の色に輝いて、ちょうど東の空に立った虹・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・町にはいろいろな店がありましたが、お宮のある山の下に小さな蝋燭を商っている店がありました。 その家には年よりの夫婦が住んでいました。お爺さんが蝋燭を造って、お婆さんが店で売っていたのであります。この町の人や、また附近の漁師がお宮へお詣り・・・ 小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
・・・ 新所帯の仏壇とてもないので、仏の位牌は座敷の床の間へ飾って、白布をかけた小机の上に、蝋燭立てや香炉や花立てが供えられてある。お光はその前に坐って、影も薄そうなションボリした姿で、線香の煙の細々と立ち上るのをじっと眺めているところへ、若・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・馴染み易く、毎夜の大阪の盛り場歩きもふと放浪者じみていたので、自然心斎橋筋や道頓堀界隈へ出掛けても、絢爛たる鈴蘭燈やシャンデリヤの灯や、華かなネオンの灯が眩しく輝いている表通りよりも、道端の地蔵の前に蝋燭や線香の火が揺れていたり、格子の嵌っ・・・ 織田作之助 「世相」
・・・いたし方なく五十吉は寄席で蝋燭の芯切りをし、椙はお茶子に雇われたが、足手まといはお光だ。寺田屋の前へ捨てればねえさんのことゆえ拾ってくれるだろうと思ってそうしたのだが、やっぱり育ててくれて、礼を言いますと頭を下げると、椙は、さアお母ちゃんと・・・ 織田作之助 「螢」
・・・梢の隙間を洩れて来る日光が、径のそこここや杉の幹へ、蝋燭で照らしたような弱い日なたを作っていた。歩いてゆく私の頭の影や肩先の影がそんななかへ現われては消えた。なかには「まさかこれまでが」と思うほど淡いのが草の葉などに染まっていた。試しに杖を・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
出典:青空文庫