ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨や・・・ 芥川竜之介 「羅生門」
・・・ 法の声は、蘆を渡り、柳に音ずれ、蟋蟀の鳴き細る人の枕に近づくのである。 本所ならば七不思議の一ツに数えよう、月夜の題目船、一人船頭。界隈の人々はそもいかんの感を起す。苫家、伏家に灯の影も漏れない夜はさこそ、朝々の煙も細くかの柳を手・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・草に縋って泣いた虫が、いまは堪らず蟋蟀のように飛出すと、するすると絹の音、颯と留南奇の香で、もの静なる人なれば、せき心にも乱れずに、衝と白足袋で氈を辷って肩を抱いて、「まあ、可かった、怪我をなさりはしないかと姉さんは心配しました。」少年はあ・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・押えられて、手を突込んだから、脚をばったのように、いや、ずんぐりだから、蟋蟀のようにもがいて、頭で臼を搗いていた。「――そろそろと歩行いて行き、ただ一番あとのものを助けるよう――」 途中から女の子に呼戻させておいて、媼巫女、その・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・「ああ、あの紺屋の物干場と向い合った……蟋蟀がないていた……」 蟋蟀は……ここでも鳴く。「その紺屋だって、あったのは昔ですわ。垣も何にもなくなって、いまは草場でしたわね。」「そうだっけな――実は、あのならびに一人、おなじ小学・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・で、薄の裾には、蟋蟀が鳴くばかり、幼児の目には鬼神のお松だ。 ぎょっとしたろう、首をすくめて、泣出しそうに、べそを掻いた。 その時姉が、並んで来たのを、衝と前へ出ると、ぴったりと妹をうしろに囲うと、筒袖だが、袖を開いて、小腕で庇って・・・ 泉鏡花 「若菜のうち」
・・・ただ相変らず蟋蟀が鳴しきって真円な月が悲しげに人を照すのみ。 若し其処のが負傷者なら、この叫声を聴いてよもや気の付かぬ事はあるまい。してみれば、これは死骸だ。味方のかしら、敵のかしら。ええ、馬鹿くさい! そんな事は如何でも好いではないか・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・――暗のなかに仄白く浮かんだ家の額は、そうした彼の視野のなかで、消えてゆき現われて来、喬は心の裡に定かならぬ想念のまた過ぎてゆくのを感じた。蟋蟀が鳴いていた。そのあたりから――と思われた――微かな植物の朽ちてゆく匂いが漂って来た。「君の・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・腋よりは蟋蟀の足めきたる肱現われつ、わなわなと戦慄いつつゆけり。この時またかなたより来かかりしは源叔父なり。二人は辻の真中にて出遇いぬ。源叔父はその丸き目みはりて乞食を見たり。「紀州」と呼びかけし翁の声は低けれども太し。 若き乞食は・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・浦和の方でよく耳についた蟋蟀が、そこでもしきりに鳴いた。お三輪はそれを聴きながら、その公園に連なり続く焼跡の方のことを思いながら寝た。 翌朝になると、二度と小竹の店を見る日は来ないかのような、その譬えようもないお三輪のさびしさが、思いが・・・ 島崎藤村 「食堂」
出典:青空文庫