・・・…… しょぼけ返って、蠢くたびに、啾々と陰気に幽な音がする。腐れた肺が呼吸に鳴るのか――ぐしょ濡れで裾から雫が垂れるから、骨を絞る響であろう――傘の古骨が風に軋むように、啾々と不気味に聞こえる。「しいッ、」「やあ、」 しッ、・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・いたずらものの野鼠は真二つになって落ち、ぬたくる蛇は寸断になって蠢くほどで、虫、獣も、今は恐れて、床、天井を損わない。 人間なりとて、心柄によっては無事では済まない。かねて禁断であるものを、色に盲いて血気な徒が、分別を取はずし、夜中、御・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ 絨毯を縫いながら、治兵衛の手の大小刀が、しかし赤黒い電燈に、錆蜈蚣のように蠢くのを、事ともしないで、「何が、犬にも牙がありゃ、牛にも角があるだあね。こんな人間の刃ものなんぞ、どうするかね。この馬鹿野郎。それでも私が来ねえと、大事な・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・――ちょうど一年前「蠢くもの」という題でおせいとの醜い啀み合いを書いたが、その時分もおせいは故意にかまた実際にそう思いこんだのか、やはり姙娠してると言いだして、自分をしてその小説の中で、思わず、自然には敵わないなあ! と嘆息させたのであるが・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・丘の上に整列していた別の中隊は、カーキ色と、百姓服が入り乱れ、蠢く方をめがけてウワッと叫びながら馳せくだりだした。 副官でない方の中尉は、通訳を、壊れかけた小屋の裏へ引っぱって行った。「何を、君、ばかなことを云ってるんだ!」 中・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・空を行く長き箭の、一矢毎に鳴りを起せば数千の鳴りは一と塊りとなって、地上に蠢く黒影の響に和して、時ならぬ物音に、沖の鴎を驚かす。狂えるは鳥のみならず。秋の夕日を受けつ潜りつ、甲の浪鎧の浪が寄せては崩れ、崩れては退く。退くときは壁の上櫓の上よ・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・日々の生活にあっては、今日と云い、今と云う、一画にぱっと照りつけた強い光りにぼかされて、微に記憶の蠢く過去と、糢糊としての予測のつかない未来とが、意識の両端に、静に懸っているのである。有のままをいえば、遠く過ぎ去った小学校時代を屡々追想して・・・ 宮本百合子 「思い出すかずかず」
・・・有難いのと畏しいのと一緒に心の中に蠢くのを止える事は出来ない。 数冊の本の中に、安成二郎氏の恋の絵巻という本がある。その表題に一寸母上が何故其を送ってよこされたかが疑われた、が、目次を見て、其中に自分の事が書いてあるらしいので、送られた・・・ 宮本百合子 「樹蔭雑記」
・・・従って、その体に作品をからみつけて、或は腹の中に蠢く作品の世界にうながされて体を動かさざるを得なかったこれまでの作家の動きは、作品と作家の動きとの間に必然の統一が保たれていて、作家が動くということはとりも直さず文学が新しい自身の動きを経験す・・・ 宮本百合子 「昭和十五年度の文学様相」
出典:青空文庫