・・・狭い谷間に沿うて段々に並んだ山田の縁を縫う小道には、とんぼの羽根がぎらぎらして、時々蛇が行く手からはい出す。谷をおおう黒ずんだ青空にはおりおり白雲が通り過ぎるが、それはただあちこちの峰に藍色の影を引いて通るばかりである。咽喉がか・・・ 寺田寅彦 「花物語」
一九三二年の夏の間に、シベリアの北の氷海を一艘のあまり大きくない汽船が一隊の科学者の探険隊を載せて、時々行く手をふさぐ氷盤を押し割りながら東へ東へと航海していた。しかしその氷の割れる音は科学を尊重するはずの日本へ少しも聞こ・・・ 寺田寅彦 「北氷洋の氷の割れる音」
・・・ いろんな女のひとの生活をみていると、この頃では二十五六歳という年が、複雑な内容でその人たちの行く手に現われるのがよくわかる。何か一つ遣りたいこと、しとげたい目的をもっている女性にとって、二十五・六という年は結婚とも絡んで愈々そのことに・・・ 宮本百合子 「小鈴」
・・・スーザン自身は、しかし、芸術というものの永い行く手を感じている本能から目前の成功にたいしては沈着で、ジョーゼフ・ハートが彼女の作品の二つをメトロポリタン美術館に入れたいと申出たのも、作品の本質が一つ一つきりはなせないものだということと、まだ・・・ 宮本百合子 「『この心の誇り』」
・・・ 小村をかこんで立った山々の上から吹き下す風にかたい粉雪は渦を巻きながら横に降って私の行く手も又すぎて来た所も灰色にかすんで居るばかりだ。 私の車を引く男はもう六十を越して居る。細い手で「かじ」をしっかり握ってのろのろと歩くか歩かな・・・ 宮本百合子 「旅へ出て」
・・・そして、彼女の道を遮り行く手を拒むあらゆるものに向って戦いが宣せられたのである。 これから、彼女にはまるで理由の分らなかった自分と周囲との不調和、内から湧こうとする力と、外から箍をかけて置こうとする力との、恐ろしい揉み合いの日が続いたの・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・しかしなお「性と子供の心配が行く手を遮った。」愈々アーネストと結婚登録した時、アグネスは「性を伴わない結婚」「ロマンチックな友愛」を考えていたのであった。 実際の結婚、姙娠、子供を産み食物と着物とを良人にたよってそのために永劫命令されて・・・ 宮本百合子 「中国に於ける二人のアメリカ婦人」
・・・東京にあって私の行く手をすべてふさいでしまった現実が、支那服を着て目前に現れたと思えばいいのだ。こいつが敵なのだ」「人間を歪めるものは戦場よりも寧ろ歪んだ平和だ」「人間性は、すでに今日の巷にあって破壊しつくされているではないか。この上に何の・・・ 宮本百合子 「文芸時評」
・・・の作者が、村の小地主である親から、文学勉強のための金は貰えぬため、先ず自活の道を講じたという、経済的な理由の上に立つ文学修業の第一頁が、云わず語らずのうちにこの一人の婦人作家の行く手を、新たな文学、徒食階級のものではない、勤労する大衆の文学・・・ 宮本百合子 「見落されている急所」
・・・そして、まだ変らぬものは、彼の姿を浮かばせている行く手に固まった安泰な山々の姿であった。四 西風が吹いて来た。勘次は桑の根株を割って風呂場の下を焚きつけた。煙は風呂場の下から逆に勘次の眼を攻めて、内庭へ舞い込むと、上り框から・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫