・・・都市の冬に特有な薄い夜霧のどん底に溢れ漲る五彩の照明の交錯の中をただ夢のような心持で走っていると、これが自分の現在住んでいる東京の中とは思えなくなって、どこかまるで知らぬ異郷の夜の街をただ一人こうして行方も知らず走っているような気がして来た・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・どう考えてもこの蒲団の行方は分からない。余所の蒲団の行先は分からない。 この角の向側に牛肉屋の豊国がある。学生の頃の最大のラキジュリーは豊国の牛鍋であった。色々の集会もここであった。天文関係の人が寄ったときにその頃発見された新星ノヴァ・・・・ 寺田寅彦 「病院風景」
・・・この一本をふかしてしまったら、起きて籠から出してやろうと思いながら、口から出る煙の行方を見つめていた。するとこの煙の中に、首をすくめた、眼を細くした、しかも心持眉を寄せた昔の女の顔がちょっと見えた。自分は床の上に起き直った。寝巻の上へ羽織を・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・ 私は、私の眼の行方を彼女に見られることを非常に怖れた。私は実際、正直な所其時、英雄的な、人道的な、一人の禁欲的な青年であった。全く身も心もそれに相違なかった。だから、私は彼女に、私が全で焼けつくような眼で彼女の××を見ていると云うこと・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ その同じ時刻に、安岡が最期の息を吐き出す時に、旅行先で深谷が行方不明になった。 数日後、深谷の屍骸が渚に打ち上げられていた。その死体は、大理石のように半透明であった。 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・こんないいやさしいお祖母様が長いきせるで煙草をのんで紫のけむりをわに吹いていらっしゃる所はあんまりにつかわしくないと思って紫のけむりの行方を見つめて娘の様子を思い出して居ると「それであんまり娘も可哀そうだから初めのうちこそ意けんもして見たが・・・ 宮本百合子 「同じ娘でも」
・・・ 本当に、良人が何を云われて居るのか分らないのを知ると、愛には益々金入れの行方が判らなくなって来た。彼女には、前に一度そういう経験があった。今よりもっと途方に暮れ、さがしあぐねて居ると、禎一が何気なく「二階見たかい」と尋ねた。あ・・・ 宮本百合子 「斯ういう気持」
・・・中の口まで出たが、もう相手の行方が知れない。痛手を負った老人の足は、壮年の癖者に及ばなかったのである。 三右衛門は灼けるような痛を頭と手とに覚えて、眩暈が萌して来た。それでも自分で自分を励まして、金部屋へ引き返して、何より先に金箱の錠前・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・それは小姓蜂谷が、体じゅうに疵もないのに死んでいて、甚五郎は行方がしれなくなったのである。小姓一人は鷺を撃ったあとで、お供をして帰る時、甚五郎が蜂谷に「約束の事はあとで談合するぞ」と言うのを聞いた。死んだ蜂谷の身のまわりを調べた役人は、かね・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
・・・移住したのです。行方不明です。」「それはよほど前の事かね。」「さよう。もう三十年程になります。」 エルリングは昂然として戸口を出て行くので、己も附いて出た。戸の外で己は握手して覚えず丁寧に礼をした。 暫くしてから海面の薄明り・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫