・・・とその後妻が、(のう、ご親類の、ご新姐――悉しくはなくても、向う前だから、様子は知ってる、行来、出入りに、顔見知りだから、声を掛けて、(いつ見ても、好容色と空笑いをやったとお思い、とじろりと二人を見ると、お京さん、御母堂だよ、いいかい。怪我・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・などの蓮ッ葉なメロディを戎橋を往き来する人々の耳へひっきりなしに送っていた。拡声機から流れる音は警察から注意が出るほど気狂い染みた大きさで、通行人の耳を聾させてまで美人座を宣伝しようという悪どいやり方であった。最初私が美人座へ行ったのは、そ・・・ 織田作之助 「世相」
・・・海の上を行き来する雲を一日眺めているのもいいじゃないか。また僕は君が一度こんなことを言ったのを覚えているが、そういう空想を楽しむ気持も今の君にはないのかい。君は言った。わずか数浬の遠さに過ぎない水平線を見て、『空と海とのたゆたいに』などと言・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・ああこのごろ、年若き男の嘆息つきてこの木立ちを当てもなく行き来せしこと幾度ぞ。 水瀦に映る雲の色は心失せし人の顔の色のごとく、これに映るわが顔は亡友の棺を枯れ野に送る人のごとし。目をあげて心ともなく西の空をながむればかの遠き蒼空の一線は・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・くして深く、陸迫りて高く、ここを港にいかりをおろす船は数こそ少ないが形は大きく大概は西洋形の帆前船で、その積み荷はこの浜でできる食塩、そのほか土地の者で朝鮮貿易に従事する者の持ち船も少なからず、内海を行き来する和船もあり。両岸の人家低く高く・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・黒橇や、荷馬車や、徒歩の労働者が、きゅうに檻から放たれた家畜のように、自由に嬉々として、氷上を辷り、頻ぱんに対岸から対岸へ往き来した。「今日は! タワーリシチ! 演説を傍聴さしてもらうぞ」 支那人、朝鮮人たち、労働者が、サヴエート同・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・意地の悪い眼を光らせ、日本の兵営附近を何回となく行き来した。それは、キッカケが見つかり次第、衝突しようと待ちかまえている見幕だった。中隊では、おだやかに、おだやかにと、兵士達を抑制していた。しかし、兵員は充実して置かなければならなかった。・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ 測量をする技師の一と組は、巻尺と、赤と白のペンキを交互に塗ったボンデンや、測量機等を携えて、その麦畑の中を行き来した。巻尺を引っ張り、三本の脚の上にのせた、望遠鏡のような測量機でペンキ塗りのボンデンをのぞき、地図に何かを書きつけて、叫・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・ じいさんとばあさんとは、大きな建物や沢山の人出や、罪人のような風をした女や、眼がまうように行き来する自動車や電車を見た。しかし、それはちっとも面白くもなければ、いゝこともなかった。田舎の秋のお祭りに、太鼓を舁いだり、幟をさしたり、一張・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・せわしく往き来する人や車を両人はぼんやり立って見ていた。頭がぐらぐらして倒れそうな気がした。「じいさん、うら腹が減ったがいの。」と、ばあさんは迷い迷って、人ごみの中をようよう公園の方へぬけて来て云った。「そんならなんぞ食うか。」・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
出典:青空文庫