・・・ 車夫は五六歩行き過ぎてから、大廻しに楫棒を店の前へ下した。さすがに慎太郎にもなつかしい、分厚な硝子戸の立った店の前へ。 四 一時間の後店の二階には、谷村博士を中心に、賢造、慎太郎、お絹の夫の三人が浮かない・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・通らずともの事だけれど、なぜかまた、わざとにも、そこを歩行いて、行過ぎてしまってから、まだ死なないでいるって事を、自分で確めて見たくてならんのでしたよ。 危険千万。 だって、今だから話すんだけれど、その蚊帳なしで、蚊が居るッていう始・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・達者というも得難いに、人間の癖にして、上手などとは行過ぎじゃぞよ。」「お姫様、トッピキピイ、あんな奴はトッピキピイでしゅ。」 と河童は水掻のある片手で、鼻の下を、べろべろと擦っていった。「おおよそ御合点と見うけたてまつる。赤沼の・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 折から人通りが二、三人――中の一人が、彼の前を行過ぎて、フト見返って、またひょいひょいと尻軽に歩行出した時、織次は帽子の庇を下げたが、瞳を屹と、溝の前から、件の小北の店を透かした。 此処にまた立留って、少時猶予っていたのである。・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 行過ぎたのが、菜畑越に、縺れるように、一斉に顔を重ねて振返った。三面六臂の夜叉に似て、中にはおはぐろの口を張ったのがある。手足を振って、真黒に喚いて行く。 消入りそうなを、背を抱いて引留めないばかりに、ひしと寄った。我が肩するる婦・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・――これは怪しからず、天津乙女の威厳と、場面の神聖を害って、どうやら華魁の道中じみたし、雨乞にはちと行過ぎたもののようだった。が、何、降るものと極れば、雨具の用意をするのは賢い。……加うるに、紫玉が被いだ装束は、貴重なる宝物であるから、驚破・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・と言って行き過ぎました。成程……貴女の事でしたか。お連になって一所に出掛けたとでも思ったでしょう――失礼します。夫人 まあ、先生。……唯今は別々でしたけれど、昨夜おそく着きました時は、御一所でございましたわ。画家 貴女と……夫人・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・「なァに、役者になるには年が行き過ぎているくらいなのですから、いよいよ決心してやるなら、自分でも考えが出るでしょう」「きイちゃん、しッかりしないといけませんよ」と、お袋はそれでも娘には折れている。「あたいだッて、たましいはあらア・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ どうせ文楽の広告ビラだろうくらいに思い、懐手を出すのも面倒くさく、そのまま行き過ぎようとして、ひょいと顔を見ると、平べったい貧相な輪郭へもって来て、頬骨だけがいやに高く張り、ぎょろぎょろ目玉をひからせているところはざらに見受けられる顔・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・与えしものも言葉なく受けしものも言葉なく、互いに嬉れしとも憐れとも思わぬようなり、紀州はそのまま行き過ぎて後振向きもせず、源叔父はその後影角をめぐりて見えずなるまで目送りつ、大空仰げば降るともなしに降りくるは雪の二片三片なり、今一度乞食のゆ・・・ 国木田独歩 「源おじ」
出典:青空文庫