・・・ いと恐しき声にもおじず、お貞は一膝乗出して、看病疲れに繕わざる、乱れし衣紋を繕いながら、胸を張りて、面を差向け、「旦那、どうして返すんです。」「離縁しよう。いまここで、この場から離縁しよう。死にかかっている吾を見棄てて、芳之助・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ とばかり簡単に言捨てたるまま、身さえ眼をさえ動かさで、一心ただ思うことあるその一方を見詰めつつ、衣を換うるも、帯を緊むるも、衣紋を直すも、褄を揃うるも、皆他の手に打任せつ。 尋常ならぬ新婦の気色を危みたる介添の、何かは知らずおどお・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・ 脱ぐはずの衣紋をかつしめて、「お米さんか。」「いいえ。」 と一呼吸間を置いて、湯どのの裡から聞こえたのは、もちろんわが心がわが耳に響いたのであろう。――お米でないのは言うまでもなかったのである。 洗面所の水の音がぴった・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・白糸 (衣紋を直し、しめやかに手を支お初に……お姑様、おっかさん、たとい欣さんには見棄てられても、貴女にばかりは抱ついて甘えてみとうござんした。おっかさん、私ゃ苦労をしましたよ。……御修業中の欣さんに心配を掛けてはならないと何にも言わず・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・(決意を示し、衣紋私がお前と、その溝川へ流れ込んで、十年も百年も、お前のその朝晩の望みを叶えて上げましょう。人形使 ややや。夫人 先生、――私は家出をいたしました。余所の家内でございます。連戻されるほどでしたら、どこの隅にも入れまし・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・ お米は、莞爾して坂上りに、衣紋のやや乱れた、浅黄を雪に透く胸を、身繕いもせず、そのまま、見返りもしないで木戸を入った。 巌は鋭い。踏上る径は嶮しい。が、お米の双の爪さきは、白い蝶々に、おじさんを載せて、高く導く。「何だい、今の・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 女は二十二三でもあろうか、目鼻立ちのパラリとした、色の白い愛嬌のある円顔、髪を太輪の銀杏返しに結って、伊勢崎の襟のかかった着物に、黒繻子と変り八反の昼夜帯、米琉の羽織を少し抜き衣紋に被っている。 男はキュウと盃を干して、「さあお光・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・お妾は抜衣紋にした襟頸ばかり驚くほど真白に塗りたて、浅黒い顔をば拭き込んだ煤竹のようにひからせ、銀杏返しの両鬢へ毛筋棒を挿込んだままで、直ぐと長火鉢の向うに据えた朱の溜塗の鏡台の前に坐った。カチリと電燈を捻じる響と共に、黄い光が唐紙の隙間に・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・着物の着こなしも、初て目見得の夜に見た時のように、いつも少し衣紋をつくり、帯も心持さがり加減に締めているので、之を他の給仕女がいずれも襟は苦しいほどに堅く引合せ、帯は出来るだけ胸高にしめているのに較べると、お民一人の様子は却て目に立った所か・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・そのために、鳥居とそのうしろの雄渾な反り橋の様式化に応じて、これらの人物は人物ながら、静的に、自身の動きを消されたものとして、衣紋さえ、こちらの群の人たちの写生風なのとは全然違った様式で統一している。 更に、思わず私たちの唇をほころばせ・・・ 宮本百合子 「あられ笹」
出典:青空文庫