・・・彼の表情にも、ものごしにも、暗い、何か純粋でないものが自ら現れていた。彼は、それを自覚していた。こういう場合、嫌疑が、すぐ自分にかゝって来ることを彼は即座に、ピリッと感じた。「おかしなことになったぞ。」彼は云った。「この札は、栗島という・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・その顔はただ注意したというほかに何の表情があるのではなかった。しかし思いのほかに目鼻立の整った、そして怜悧だか気象が好いか何かは分らないが、ただ阿呆げてはいない、狡いか善良かどうかは分らないが、ただ無茶ではない、ということだけは読取れた。・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・妹は唇のホンの隅だけを動かして、冷い表情をかえしたきりだった。妹と特高のその様子を見た母の顔は急に変った。そして、口のあたりをモグ/\と動かした。が、何故か周章てゝ両手で、自分の口を抑えた。妹はその母をチラッと見ると、横を向いた。――その朝・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・この表情はおげんを楽ませた。おげんは娘から勧められた煙管の吸口を軽く噛み支えて、さもうまそうにそれを燻した。子の愛に溺れ浸っているこの親しい感覚は自然とおげんの胸に亡くなった旦那のことをも喚び起した。妻として尊敬された無事な月日よりも、苦い・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・しかし青年の顔はやはり心配げな、嘆願するような表情を改めない。その目からは、老人の手の上に涙がほろりと落ちて来た。老人は始めて青年の心が分かって自分も目が覚めた。老人は屈めた項を反らした。そして青年を見くびったような顔をして、口に排斥するよ・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・という長編戯曲に就いては私は、いまでも、その中の人物の表情までも、はっきり思い出すことができるのであります。 長兄が三十歳のとき、私たち一家で、「青んぼ」という可笑しな名前の同人雑誌を発行したことがあります。そのころ美術学校の塑像科に在・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・眉の美しい、色の白い頬の豊かな、笑う時言うに言われぬ表情をその眉と眼との間にあらわす娘だ。 「もうどうしても二十二、三、学校に通っているのではなし……それは毎朝逢わぬのでもわかるが、それにしてもどこへ行くのだろう」と思ったが、その思った・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・折々彼の眼が妙な表情をして瞬く事がある。するとドイツ語の分らない人でも皆釣り込まれて笑い出す。」「不思議な、人を牽き付ける人柄である。干からびたいわゆるプロフェッサーとはだいぶ種類がちがっている。音楽家とでもいうような様子があるが、彼は・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・彼女はまた寂しい表情をした。「どのくらい収入があるのかね」「いくらもありゃしませんけれどな、お金なぞたんと要らん思う。私はこれで幸福や」そう言って微笑していた。 もっと快活な女であったように、私は想像していた。もちろん憂鬱ではな・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・そして幾まがりする野良道を、もうお互いの顔の表情もさだかでなくなるくらいのところで、女はこっちをふりかえって首をかしげてみせる。それまで土堤道につったっている三吉もあわてて首をさげながら、それでほッとよみがえったようになるのであった。――・・・ 徳永直 「白い道」
出典:青空文庫