・・・僕はその時、ぬかるみに電車の影が映ったり、雨にぬれた洋傘が光ったりするのに感服していたが、菊池は軒先の看板や標札を覗いては、苗字の読み方や、珍らしい職業の名なぞに注意ばかりしていた。菊池の理智的な心の持ち方は、こんな些事にも現われているよう・・・ 芥川竜之介 「合理的、同時に多量の人間味」
・・・が、新らしい標札には「櫛部寓」と書いてあった。僕はこの標札を眺めた時、ほんとうに僕の死んだことを感じた。けれども門をはいることは勿論、玄関から奥へはいることも全然不徳義とは感じなかった。 妻は茶の間の縁側に坐り、竹の皮の鎧を拵えていた。・・・ 芥川竜之介 「死後」
・・・しかし主人は標札によれば、加藤清正に違いなかった。のみならずまだ新しい紺暖簾の紋も蛇の目だった。僕らは時々この店へ主人の清正を覗きに行った。清正は短い顋髯を生やし、金槌や鉋を使っていた。けれども何か僕らには偉そうに思われてしかたがなかった。・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・もう鼠色のペンキの剥げかかった、狭苦しい玄関には、車夫の出した提灯の明りで見ると、印度人マティラム・ミスラと日本字で書いた、これだけは新しい、瀬戸物の標札がかかっています。 マティラム・ミスラ君と云えば、もう皆さんの中にも、御存じの方が・・・ 芥川竜之介 「魔術」
・・・石に嵌めこんだ標札には「悠々荘」と書いてあった。が、門の奥にある家は、――茅葺き屋根の西洋館はひっそりと硝子窓を鎖していた。僕は日頃この家に愛着を持たずにはいられなかった。それは一つには家自身のいかにも瀟洒としているためだった。しかしまたそ・・・ 芥川竜之介 「悠々荘」
・・・という申訳の表札の文字が、鈍い裸電燈の明りに、わずかにそれと読めた。「やあ、うちもやられたんですか」「やられたよ。田舎へ引っ込もうと思ったんだが、お前が帰って来てうろうろすると可哀想だと思ったから、とにかく建てて置いたよ」 それ・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・雑閙に押されて標札屋の前まで来た時、私はあっと思った。標札屋の片店を借りていた筈の「波屋」はもうなくなっていたのである。中学生の本箱より見すぼらしい本屋ではとても立ち行かぬと思って、商売がえでもしたのだろうかと、私はさすがに寂しく雑閙に押さ・・・ 織田作之助 「神経」
・・・という表札が掛っていた。「やア、帰ったね」 さすがになつかしく、はいって行くと、参ちゃんは帽子を取って、「おかげさんでやっと帰れました。二度も書いてくれはりましたさかい、頑張らないかん思て、戦争が終ってすぐ建築に掛って、やっと去・・・ 織田作之助 「神経」
・・・の剣幕が目先に浮んで来て、足は自と立縮む。「もしどうしても返さなかったら」の一念が起ろうとする時、自分は胸を圧つけられるような気がするのでその一念を打消し打消し歩いた。「大河とみ」の表札。二階建、格子戸、見たところは小官吏の住宅らしく。・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・省線は五反田で降りて、それから小坂氏の書いて下さった略図をたよりに、十丁ほど歩いて、ようやく小坂氏の標札を見つけた。想像していたより三倍以上も大きい邸宅であった。かなり暑い日だった。私は汗を拭い、ちょっと威容を正して門をくぐり、猛犬はいない・・・ 太宰治 「佳日」
出典:青空文庫