・・・ 衰えは春野焼く火と小さき胸を侵かして、愁は衣に堪えぬ玉骨を寸々に削る。今までは長き命とのみ思えり。よしやいつまでもと貪る願はなくとも、死ぬという事は夢にさえ見しためしあらず、束の間の春と思いあたれる今日となりて、つらつら世を観ずれば、・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・字義通りに彼女は瘠せ衰えて、棒のように見えた。 幼い時から、あらゆる人生の惨苦と戦って来た一人の女性が、労働力の最後の残渣まで売り尽して、愈々最後に売るべからざる貞操まで売って食いつないで来たのだろう。 彼女は、人を生かすために、人・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 一言の返事もせずに、地びたから身を起したのは、痩せ衰えた爺いさんである。白い鬚がよごれている。頭巾の附いた、鼠色の外套の長いのをはおっているが、それが穴だらけになっている。爺いさんはパンと腸詰とを、物欲しげにじっと見ている。 一本・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・商なり、また航海なり、人生の肉体に属することにして近く実利に接するものなれば、政府はその実際の利害につき、あるいは課税を軽重し保護を左右する等の術を施して、たちまちこれを盛ならしめ、またたちまちこれを衰えしむること、はなはだやすし。 す・・・ 福沢諭吉 「政事と教育と分離すべし」
・・・秋海棠はなお衰えずにその梢を見せて居る。余は病気になって以来今朝ほど安らかな頭を持て静かにこの庭を眺めた事はない。嗽いをする。虚子と話をする。南向うの家には尋常二年生位な声で本の復習を始めたようである。やがて納豆売が来た。余の家の南側は小路・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・火山がだんだん衰えて、その腹の中まで冷えてしまう。熔岩の棒もかたまってしまう。それから火山は永い間に空気や水のために、だんだん崩れる。とうとう削られてへらされて、しまいには上の方がすっかり無くなって、前のかたまった熔岩の棒だけが、やっと残る・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・が、すっかり衰えた。憎たらしい、横柄な口も利かなくなった。いずれにせよ、仙二はこの経験で、彼女を隣人として持つことは、どのような手数、心の重荷――厄介かということを知ったのであった。 青年団の寄合で、村会議員の清助に会った時、彼はざっく・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・かれの背後で言い合っていた。 かれはこれを感じている。かれの心はこのために裂かれた。かれは労して功なく精根を尽くしてしまった。かれの衰え行く様は明らかに見える。 今や諧謔の徒は周囲の人を喜ばすためにかれをして『糸くず』の物語をやって・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・ そして、家に着くと、戸口の処に身体の衰えた男の乞食が、一人彼に背を見せて蹲んでいた。「今日は忙しいのでのう、また来やれ。」 彼が柴を担いだまま中へ這入ろうとすると、「秋か?」と乞食は云った。 秋三は乞食から呼び捨てにさ・・・ 横光利一 「南北」
・・・わたくしはそのころの京都大学の空気を知らないから、このきちょうめんさが外からの要求なのか、あるいは先生自身の内から出たのか、それを判断することはできないが、晩年まで衰えることのなかった先生の旺盛な探求心のことを思うと、あのとき先生が大学の方・・・ 和辻哲郎 「露伴先生の思い出」
出典:青空文庫