・・・雪は旅館の裏山へ私を誘った。私も、よろこんでついて行った。くねくね曲った山路をならんでのぼりながら、雪は、なにかの話のついでに、とつぜん或る新進作家の名前で私を高く呼んだ。私は、どきんと胸打たれた。雪の愛している男は私ではない。或る新進作家・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・窓の下框には扁柏の高いこずえが見えて、その上には今目ざめたような裏山がのぞいている。床はそのままに、そっと抜け出して運動場へおりると、広い芝生は露を浴びて、素足につっかけた兵隊靴をぬらす。ばったが驚いて飛び出す羽音も快い。芝・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・今ごろ備中総社の町の人たちは裏山の茸狩に、秋晴の日の短きを歎いているにちがいない。三門の町を流れる溝川の水も物洗うには、もう冷たくなり過ぎているであろう。 待つ心は日を重ね月を経るに従って、郷愁に等しき哀愁を醸す。郷愁ほど情緒の美しきも・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・私はフランネルの着物を着て、ひとりで裏山などを散歩しながら、所在のない日々の日課をすごしていた。 私のいる温泉地から、少しばかり離れた所に、三つの小さな町があった、いずれも町というよりは、村というほどの小さな部落であったけれども、その中・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・蒔絵のある建物が裏山の中腹にあって、下から登龍の階と云うのを渡って行くようになっていた。遠洲の案とかで、登ってゆくときには龍の白い腹だけ、降りには龍の背を黒く踏んで来るように、階段の角度が工夫してあるのであった。 満足もしない心持で寺を・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・ いかにも農家の裏山へ通じると云うおもむきの、苔のついた石段をのぼると低い切りどおし道になった。温暖な地方は共通なものと見えてその小道にしげっている羊歯の生え工合などが伊豆の山道を思いおこさせた。季節であればこのこみちにもりんどうの花が・・・ 宮本百合子 「琴平」
・・・そとに出て見る、表山、山、杉木立、明るい錆金色の枯草山、そこに小さい紅い葉をつけたはじの木、裏山でいつも日の当らないところは、杉木立の下に一杯苔がついて居、蘭科植物や羊歯が青々といつも少しぬれて繁茂して居る。 山が多く、日光が当るあたら・・・ 宮本百合子 「一九二五年より一九二七年一月まで」
・・・ 彼は若者の答えを待たずに、裏山から漁場の方へ降りていった。扁平な漁場では、銅色の壮烈な太股が、林のように並んでいた。彼らは折からの鰹が着くと飛沫を上げて海の中へ馳け込んだ。子供たちは砂浜で、ぶるぶる慄える海月を攫んで投げつけ合った。舟・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・松や雑木の林が始まり、それが子供にとって非常に広いと思われるほど続いて、やがて山の斜面へ移るのであるが、幼いころの茸狩りの場所はこの平地の林であり、小学校の三、四年にもなれば山腹から頂上へ、さらにその裏山へと探し回った。今ではその平地の林が・・・ 和辻哲郎 「茸狩り」
出典:青空文庫