江口は決して所謂快男児ではない。もっと複雑な、もっと陰影に富んだ性格の所有者だ。愛憎の動き方なぞも、一本気な所はあるが、その上にまだ殆病的な執拗さが潜んでいる。それは江口自身不快でなければ、近代的と云う語で形容しても好い。・・・ 芥川竜之介 「江口渙氏の事」
・・・が、彼の食いしばった歯の間を洩れる声には、ただ唸り声と云う以上に、もう少し複雑な意味がある。と云うのは、彼は独り肉体的の苦痛のためにのみ、呻吟していたのではない。精神的な苦痛のために――死の恐怖を中心として、目まぐるしい感情の変化のために、・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・歌の調子はまだまだ複雑になり得る余地がある。昔は何日の間にか五七五、七七と二行に書くことになっていたのを、明治になってから一本に書くことになった。今度はあれを壊すんだね。歌には一首一首各異った調子がある筈だから、一首一首別なわけ方で何行かに・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・、所有方面の精神的修養に資せられるべきは言うを待たない、西洋などから頻りと新らしき家庭遊技などを輸入するものは、国民品性の特色を備えた、在来の此茶の湯の遊技を閑却して居るは如何なる訳であろうか、余りに複雑で余りに理想が高過ぎるにも依るであろ・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・ことに以前の単純の時代と反対に、自分にはとにかく妻というものができ、一方には元の恋中の女が独身でいて、しかもどうやら自分の様子に注意しているらしく思われる境涯、年若な省作にはあまりに複雑すぎた位置である。感覚の働きが鈍ったわけではないけれど・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ かつ『八犬伝』の脚色は頗る複雑して事件の経緯は入り組んでいる。加うるに人物がそれぞれの歴史や因縁で結ばれてるので、興味に駆られてウカウカ読んでる時はほぼ輪廓を掴んでるように思うが、細かに脈絡を尋ねる時は筋道が交錯していて彼我の関係を容・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ 自分は小説家でないとか文人になれないとかいったには種々の複雑した意味があったが、自ら文章の才がないと断念めたのもまた有力なる理由の一つであった。二葉亭の作を読んで文才を疑う者は恐らく決してなかろうと思うが、二葉亭自身は常に自己の文才を・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・その音はいつもよりにぎやかそうで、また複雑した音色のように思われました。さよ子はまたそこまでいってみたくなりました。 彼女はまた、その家の窓の下にきて、石の上に立って中をのぞいてみました。すると、へやの中のようすは、これまでとはすっかり・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・ 木の芽は、生まれて出た世の中が予想をしなかったほど、複雑なのに頭を悩ましました。そして、空恐ろしさに震えていました。「おまえは寒いのか。なんでそんなに震えているのだ。」と、太陽は、怪しんで聞きました。 木の芽は、風に吹かれて、・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・その時の気持はせんさくしてみれば、ずいぶん複雑でしたが、しかし、今はもうその興味はありません。それに、複雑だからといって、べつに何の自慢にもならない。先を急ぎましょう。 さて、これからがこの話の眼目にはいるのですが、考えてみると、話・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫