・・・其暑い頂点を過ぎて日が稍斜になりかけた頃、俗に三把稲と称する西北の空から怪獣の頭の如き黒雲がむらむらと村の林の極から突き上げて来た。三把稲というのは其方向から雷鳴を聞くと稲三把刈る間に夕立になるといわれて居るのである。雲は太く且つ広く空を掩・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ そして西北の方からは、少し風が吹いてきました。 もうよほど、そらも冷たくなってきたのです。東の遠くの海の方では、空の仕掛けを外したような、ちいさなカタッという音が聞え、いつかまっしろな鏡に変ってしまったお日さまの面を、なにかちいさ・・・ 宮沢賢治 「水仙月の四日」
・・・野原のずうっと西北の方で、ぼお、とたしかにトローンボーンかバスの音がきこえました。わたくしはきっとそっちを向きました。するとまた西の方でもきこえるのです。わたくしはおもわず身ぶるいしました。野原ぜんたいに誰か魔術でもかけているか、そうでなけ・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・ 三十一日うたわず 云わぬ我心を西北の風よかなたの胸に 吹きおくれ澱んだ水のように凝っと動かぬかなたの心に。 宮本百合子 「初夏(一九二二年)」
・・・ 六月二十三日 梅雨のはれ間、激しい西北の風とともに空はすっかり霽れ上った。 庭に出、空を仰ぐと、深い一片の雲もない天に、月と星とが、小さく、はっきり見える。中天に昇って居る故か月は、不思議に小さく近く見えた。何・・・ 宮本百合子 「一九二三年夏」
・・・ ××町というのは、東京の西北端から、更に一里半ばかり田舎に引込んだ住宅地の一つであった。××町の入口を貫いて、或る郊外電車が古くから通じていた。終点が何で、夏は有名な遊園地であった。或る信託会社と、専門家の間ではネゲティブな意味で名を・・・ 宮本百合子 「牡丹」
・・・七日には浜町の神戸方へ、兄が末期に世話になった礼に往った。西北の風の強い日で、丁度九郎右衛門が神戸の家にいるうちに、神田から火事が始まった。歴史に残っている午年の大火である。未の刻に佐久間町二丁目の琴三味線師の家から出火して、日本橋方面へ焼・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
壱 小倉の冬は冬という程の事はない。西北の海から長門の一角を掠めて、寒い風が吹いて来て、蜜柑の木の枯葉を庭の砂の上に吹き落して、からからと音をさせて、庭のあちこちへ吹き遣って、暫くおもちゃにしていて、と・・・ 森鴎外 「独身」
・・・しかし京都から移って来て数年後に東京の西北の郊外に住むようになってみると、杉苔は東京にもざらにあることがわかった。農家の防風林で日陰になっている畑の畔などにはしばしば見かける。散歩のついでにそれを取って来て庭に植えたこともあるが、それはいつ・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
出典:青空文庫