・・・ただわずかに見分けられるのははかない石鹸玉に似た色彩である。いや、色彩の似たばかりではない。この白壁に映っているのはそれ自身大きい石鹸玉である。夢のようにどこからか漂って来た薄明りの中の石鹸玉である。「あのぼんやりしているのはレンズのピ・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・少くとも彼の誇っていたものは彼の智慧かかの女の智慧か見分けのつかなくなるためだった。ソロモンはモアブ人、アンモニ人、エドミ人、シドン人、ヘテ人等の妃たちを蓄えていた。が、彼女等は何といっても彼の精神的奴隷だった。ソロモンは彼女等を愛撫する時・・・ 芥川竜之介 「三つのなぜ」
・・・一軒の家の戸を敲いて、ようやく松川農場のありかを教えてもらった時は、彼れの姿を見分けかねるほど遠くに来ていた。大きな声を出す事が何んとなく恐ろしかった。恐ろしいばかりではない、声を出す力さえなかった。そして跛脚をひきひきまた返って来た。・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ やにわに長い手を伸ばされて、はっと後しざりをする、娘の駒下駄、靴やら冷飯やら、つい目が疎いかして見分けも無い、退く端の褄を、ぐいと引いて、「御夢想のお灸であすソ、施行じゃいの。」 と鯰が這うように黒被布の背を乗出して、じりじり・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・仲間どもはどうなったか思て、後方を見ると、光弾の光にずらりと黒う見えるんは石か株か、死体か生きとるんか、見分けがつかなんだ。また敵の砲塁までまだどれほどあるかて、音響測量をやって見たら、たッた二百五十メートルほかなかった。大小の敵弾は矢ッ張・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ いつでも、ばかとりこうとは、ちょっと見分けのつかぬものです。 小川未明 「からすとかがし」
・・・ また、仏さまは、三人の男に向かって、「女がほんとうに悟りがついて、永久に変わらない自分の夫を見分けがつくまで、ここに待っているがいい。」といわれました。 やがて、女の姿は、ちょうとなりました。そして、夕日の空に向かって、どこへ・・・ 小川未明 「ちょうと三つの石」
・・・道を見分けてゆく方法は昼間の方法と何の変わったこともなかった。道を染めている昼間のほとぼりはなおさらその感じを強くした。 突然私の後ろから風のような音が起こった。さっと流れて来る光のなかへ道の上の小石が歯のような影を立てた。一台の自動車・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・あらず、あらず、ただ見るいつもいつも、物いわぬ、笑わざる、歌わざる漢子の、農夫とも漁人とも見分けがたきが淋しげに櫓あやつるのみ。 鍬かたげし農夫の影の、橋とともに朧ろにこれに映つる、かの舟、音もなくこれを掻き乱しゆく、見る間に、舟は葦が・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・横顔なれば定かに見分け難きも十八、九の少女なるべし、美しき腕は臂を現わし、心をこめて洗うは皿の類なり。 少女は青年に気づかざるように、ひたすらその洗う器を見て何事をも打ち忘れたらんごとし。幾個かの皿すでに洗いおわりて傍らに重ね、今しも洗・・・ 国木田独歩 「わかれ」
出典:青空文庫