・・・もしこれが自分の家であったら、見知らぬ人に寝起のままの乱れた髪や汚れた顔を見せずとも済むものを、宿屋に泊る是非なさは、皺だらけになった寝衣に細いシゴキを締めたままで、こそこそと共同の顔洗い場へ行かねばならない。 洗場の流は乾く間のない水・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ところが春浪さんは僕等の見知らぬ男を引連れ、ずかずか二階へ上って来て、まず唖々さんに喧嘩を売りはじめた。僕は学校の教師見たような事をしていた頃なので、女優と芸者とに耳打して、さり気なく帽子を取り、逸早く外へ逃げだした。後になって当夜の事をき・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・新しきを嫌わず、古きを辞せず、人の見知らぬ盾あらば貸し玉え」 老人ははたと手を拍つ。「望める盾を貸し申そう。――長男チアーは去ぬる騎士の闘技に足を痛めて今なお蓐を離れず。その時彼が持ちたるは白地に赤く十字架を染めたる盾なり。ただの一度の・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・昔はただそれの表象、汽車や、汽船や、見知らぬ他国の町々やを、イメージするだけでも心が躍った。しかるに過去の経験は、旅が単なる「同一空間における同一事物の移動」にすぎないことを教えてくれた。何処へ行って見ても、同じような人間ばかり住んでおり、・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・幾里の登り阪を草鞋のあら緒にくわれて見知らぬ順礼の介抱に他生の縁を感じ馬子に叱られ駕籠舁に嘲られながらぶらりぶらりと急がぬ旅路に白雲を踏み草花を摘む。実にやもののあわれはこれよりぞ知るべき。はた十銭のはたごに六部道者と合い宿の寝言は熟眠を驚・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・そして、一生懸命な心持で見知らぬ門を入って行った。 暫くして一太が出て来ると、母親が遠くの電信柱のところに立っていて、おいでおいでをした。彼女は勇気がなかったから、自分で玉子を売らず、いつも外で幼い一太が稼いで来るのを待っているのであっ・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・ 生きなければならないばかりに栄蔵は、自分より幾代か前の見知らぬ人々の骨折の形見の田地を売り食いして居た。 働き盛りの年で居ながら、何もなし得ないで、やがては、見きりのついて居る田地をたよりに、はかない生をつづけて行かなければならな・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・政治と愛嬌とが結ばれた時、政治と不思議な人当りのよさが結ばれた時、若い娘が見知らぬ男からひどくあいそよく物をいいかけられた時のようなうす気味悪さを感じます。しかし孤独な生活に苦しみ愛情に飢えている若い娘はうす気味悪く思った自然の気持ちをまぎ・・・ 宮本百合子 「本当の愛嬌ということ」
・・・ 四月五日に、まだ壁が乾き切らぬと云うのに、果して見知らぬ爺いさんが小さい荷物を持って、宮重方に著いて、すぐに隠居所に這入った。久右衛門は胡麻塩頭をしているのに、この爺いさんは髪が真白である。それでも腰などは少しも曲がっていない。結構な・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
・・・「誰やらん見知らぬ武士が、ただ一人従者をもつれず、この家に申すことあるとて来ておじゃる。いかに呼び入れ候うか」「武士とや。打揃は」「道服に一腰ざし。むくつけい暴男で……戦争を経つろう疵を負うて……」「聞くも忌まわしい。この最・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫