・・・ ひとりかの男のみ、堅く突立って、頬を傾げて、女を見返ることさえ得しない。 赤ら顔も足も動かさなかった。「あまつさえ、乱暴とも狼藉とも申しようのない、未練と、執着と、愚癡と、卑劣と、悪趣と、怨念と、なおその上にほとんど狂乱だと申・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ 道を切って、街道を横に瀬をつくる、流に迷って、根こそぎ倒れた並木の松を、丸木橋とよりは筏に蹈んで、心細さに見返ると、車夫はなお手廂して立っていた。 翼をいためた燕の、ひとり地ずれに辿るのを、あわれがって、去りあえず見送っていたので・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・から/\と引き出せば後にまた御機嫌ようの声々あまり悪からぬものなり。見返る門柳監獄の壁にかくれて流れる水に漣れんい動く。韋駄天を叱する勢いよく松が端に馳け付くれば旅立つ人見送る人人足船頭ののゝしる声々。車の音。端艇涯をはなるれば水棹のしずく・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・驚いて箸を持ったまま、思わず音のする彼方を見返ると、底びかりのする神秘な夜の空に、宵の明星のかげが、たった一ツさびし気に浮いているのが見える。枯れた樹の梢に三日月のかかっているのを見ることもある。 やがて日の長くなることが、やや際立って・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・と呼ぶので、わたくしは燈火や彩旗の見える片方を見返ると、絵看板の間に向嶋劇場という金文字が輝いていて、これもやはり活動小屋であった。二、三人残っていた乗客はここで皆降りてしまって、その代り、汚い包をかかえた田舎者らしい四十前後の女が二人乗っ・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・わたくしはこんな淋しいところに家を建てても借りる人があるか知らと、何心なく見返る途端、格子戸をあけてショオルを肩に掛けながら外へ出た女があった。女は歩きつかれたわたくしを追越して、早足に歩いて行く。 わたくしは枯蘆の中の水たまりに宵の明・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・ 名山がふと廊下の足音を見返ると、吉里が今便所から出て湯殿の前を通るところであッた。しッと言ッた名山の声に、一同廊下を見返り、吉里の姿を見ると、さすがに気の毒になッて、顔を見合わせて言葉を発する者もなかッた。 * ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・』 突如に斯う云った人があったのです。見返ると、あの可厭々々学生が、何時か私達の傍近くに立って居たではありませんか。 若子さんの御兄さんは、じろりと彼の学生の顔を御覧でした。 若子さんは小さな声で、『兄さん、彼女の方は随分ですわ・・・ 広津柳浪 「昇降場」
出典:青空文庫