・・・この男が少しでも動くか、その顔の表情が少しでも変るのを見逃してはならないような心持がしているのである。 罪人は諦めたような風で、大股に歩いて這入って来て眉を蹙めてあたりを見廻した。戸口で一秒時間程躊躇した。「あれだ。あれだ。」フレンチは・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・中やすみの風が変って、火先が井戸端から舐めはじめた、てっきり放火の正体だ。見逃してやったが最後、直ぐに番町は黒焦さね。私が一番生捕って、御覧じろ、火事の卵を硝子の中へ泳がせて、追付け金魚の看板をお目に懸ける。……」「まったく、懸念無量じ・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・僕はそそっかしいので、あなたの音楽会の広告が出ていても、うっかり見逃しそうですから……」「はあ。でも、歌はおきらいなのでしょう?」 微笑していた。「いや、あれは取消しです。速記録から除いて貰いましょう。本員の失言でした」「ま・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・魚が来てカカリへ啣え込んだのか、大芥が持って行ったのか、もとより見ぬ物の正体は分りませんが、吉はまた一つ此処で黒星がついて、しかも竿が駄目になったのを見逃しはしませんで、一層心中は暗くなりました。こういうこともない例ではありませんが、飽まで・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・「伝統、ということになりますると、よほどのあやまちも、気がつかずに見逃してしまうが、問題は、微細なところに沢山あるのです。もっと自由な立場で、極く初等的な万人むきの解析概論の出ることを、切に、希望している次第であります。」めちゃめちゃである・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・たったそれだけの眼の向け方でも今まで見逃していた自然の美しさが今更のように目に立つのである。写真機のピントガラスに映った自然や、望遠鏡の視野に現われた自然についても、時に意外な発見をして驚くのは何人にも珍しくない経験である。 芸術家とし・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
・・・けれども汽車に見逃してはならない運動というものがこの写真のうちには出ていないのだから実際の汽車とはとうてい比較のできないくらい懸絶していると云わなければなりますまい。御存じの琥珀と云うものがありましょう。琥珀の中に時々蠅が入ったのがある。透・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・その小説について、斯道に関係ある我々の見逃し能わざる特殊の現象が毎月刊行の雑誌の上に著るしく現れて来た。それは全体の小説が芸術的作品として、或る水平に達しつつあるという事実である。またその水平が年々に高くなりつつあるという事実である。この二・・・ 夏目漱石 「文芸委員は何をするか」
・・・の場合にしろ、当時における日本の作家の時代意識について理解しようとすれば、一方に、ごく世相的反応で製作したたとえば江見水蔭のような作家たちが、その描く対象をどう見てどう感じていたかということをも見逃し得ない。現象に対する作家たちの解釈は、そ・・・ 宮本百合子 「作家と時代意識」
・・・同時に一方、その機械的適用があったことをも見逃してはならない。今日の段階に立って見れば、このスローガンには哲学上の規定をそのままもって来ている点から、創作の実際とぴったりしないところがあって、プロレタリア作家に、むしろ不明瞭で窮屈な感じを与・・・ 宮本百合子 「社会主義リアリズムの問題について」
出典:青空文庫