・・・の歌左に人にかさかしたりけるに久しうかへさざりければ、わらはしてとりにやりけるにもたせやりたる山吹のみの一つだに無き宿はかさも二つはもたぬなりけり その貧乏さ加減、我らにも覚えのあることなり。ひた土に筵し・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・絵が上手だといいんだけれども僕は絵は描けないから覚えて行ってみんな話すのだ。風は寒いけれどもいい天気だ。僕は少しも船に酔わない。ほかにも誰も酔ったものはない。 *いるかの群が船の横を通っている。いちばんはじめに見附・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
芥川さんでしたか「私達の生活の側に天国をもって来るとしたら、きっと退屈してしまって、死んでしまいたくなるだろう」って云われたように覚えてますが、それは私も同感に思います。ですから理想などというものは、実現されるまでのその間・・・ 宮本百合子 「愛と平和を理想とする人間生活」
・・・』 そこで老人確かに覚えがある、わかった、真っ赤になって怒った。『おやッ! 彼奴がわしを見たッて、あの悪党が。彼奴はわしが、そらここにこの糸を拾ったの見ただ、あなた。』 ポケットの底をさぐって、かれは裡から糸の切れくずを引きだし・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・長十郎は実際ちょっと寝ようと思ったのだが、覚えず気持よく寝過し、午になったと聞いたので、食事をしようと言ったのである。これから形ばかりではあるが、一家四人のものがふだんのように膳に向かって、午の食事をした。 長十郎は心静かに支度をして、・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・どんな風に事柄が運んで行ったと云うことはあなたもまだ覚えていらっしゃるでしょう。ブダペストへ参ってからも、わたくしはあなたと御交際を続けて行きました時も、まだ御主人がどんな方だか知らなかったのですね。 女。ええ。 男。そのころある日・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
・・・ 秋三は乞食から呼び捨てにされる覚えがなかった。「手前、俺を知っているのか?」「知るも知らんもあるものか。汝大きゅうなったやないか。」 秋三は暫く乞食の顔を眺めていた。すると、乞食は焦点の三に分った眼差しで秋三を斜めに見上げ・・・ 横光利一 「南北」
・・・戸の外で己は握手して覚えず丁寧に礼をした。 暫くしてから海面の薄明りの中で己はエルリングの頭が浮び出てまた沈んだのを見た。海水は鈍い銀色の光を放っている。 己は帰って寝たが、夜どおしエルリングが事を思っていた。その犯罪、その生涯の事・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・ 僕はまだ少さかったけれど、あの時分の事はよく覚えていますよ。サアお出だというお先布令があると、昔堅気の百姓たちが一同に炬火をふり輝らして、我先と二里も三里も出揃って、お待受をするのです。やがて二頭曳の馬車の轟が聞えると思うと、その内に・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・どれほど長くこの光景に見とれていたかということも、はっきりとは覚えていない。が、やがてわれわれは、船頭のすすめるままに、また舟を進ませた。蓮の花の世界の中のいろいろな群落を訪ね回ったのである。そうしてそこでもまたわれわれは思いがけぬ光景に出・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
出典:青空文庫