・・・本間さんは返事をしずに、ただにやにやほほ笑みながら、その間に相手の身のまわりを注意深く観察した。老紳士は低い折襟に、黒いネクタイをして、所々すりきれたチョッキの胸に太い時計の銀鎖を、物々しくぶらさげている。が、この服装のみすぼらしいのは、決・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・しかしまたある動物学者の実例を観察したところによれば、それはいつも怪我をした仲間を食うためにやっていると云うことです。僕はだんだん石菖のかげに二匹の沢蟹の隠れるのを見ながら、M子さんのお母さんと話していました。が、いつか僕等の話に全然興味を・・・ 芥川竜之介 「手紙」
・・・ その前後二、三分の間にまくし上がった騒ぎの一伍一什を彼は一つも見落とさずに観察していたわけではなかったけれども、立ち停った瞬間からすぐにすべてが理解できた。配達車のそばを通り過ぎた時、梶棒の間に、前扉に倚りかかって、彼の眼に脚だけを見・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・曰く、「あらゆる行為の根底であり、あらゆる思索の方針である智識を有せざる彼等文芸家が、少しでも事を論じようとすると、観察の錯誤と、推理の矛盾と重畳百出するのであるが、これが原因を繹ねると、つまり二つに帰する。その一つは彼等が一時の状態を永久・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・博士の、静粛な白銀の林の中なる白鷺の貴婦人の臨月の観察に、ズトン! は大禁物であるから、睨まれては事こわしだ。一旦破寺――西明寺はその一頃は無住であった――その庫裡に引取って、炉に焚火をして、弁当を使ったあとで、出直して、降積った雪の森に襲・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・かれはいかに予を観察して先生というのか、予は思わず微笑した。かれは、なおかわいらしき笑いを顔にたたえて話をはじめたのである。「先生さまなどにゃおかしゅうござりましょうが、いま先生が水が黒いとおっしゃりますから、わし子どものときから聞いて・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・緑雨の通人的観察もまたしばしば人生の一角に触れているので、シミッ垂れな貧乏臭いプロの論客が鼻を衝く今日緑雨のような小唄で人生を論ずるものも一人ぐらいはあってもイイような気がする。が、こう世の中が世智辛くなっては緑雨のような人物はモウ出まいと・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ 今、単に経済上より観察を下しまして、この小国のけっして侮るべからざる国であることがわかります。この国の面積と人口とはとてもわが日本国に及びませんが、しかし富の程度にいたりましてははるかに日本以上であります。その一例を挙げますれば日本国・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・……私は其処に新しい詩材を見出すことが出来るように覚えて観察を怠るまいと思った。 此時始めてこの二軒長屋の一軒が、戸を開けてあるのを見て驚いた。もう此家は疾に起きていると思われたからだ。私は其の時からこの家にはどういう人々が住んでいるだ・・・ 小川未明 「ある日の午後」
・・・ そんなに仔細に観察されていたのかと、私は腋の下が冷たくなった。 女は暫らく私を見凝めるともなく、想いにふけるともなく捕えがたい視線をじっと釘づけにしていたが、やがていきなり歪んだ唇を痙攣させたかと思うと、「私の従兄弟が丁度お宅・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫