・・・ ……煙草の煙、草花のにおい、ナイフやフォオクの皿に触れる音、部屋の隅から湧き上る調子外れのカルメンの音楽、――陳はそう云う騒ぎの中に、一杯の麦酒を前にしながら、たった一人茫然と、卓に肘をついている。彼の周囲にあるものは、客も、給仕も、・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・熱い指先と冷たい金属とが同時に皮膚に触れると、自制は全く失われてしまった。彼女は苦痛に等しい表情を顔に浮べながら、眼を閉じて前に倒れかかった。そこにはパオロの胸があるはずだ。その胸に抱き取られる時にクララは元のクララではなくなるべきはずだ。・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 問題に触れるのは、お桂ちゃんの母親で、もう一昨年頃故人の数に入ったが、照降町の背負商いから、やがて宗右衛門町の角地面に問屋となるまで、その大島屋の身代八分は、その人の働きだったと言う。体量も二十一貫ずッしりとした太腹で、女長兵衛と称え・・・ 泉鏡花 「怨霊借用」
・・・後は闇々黒々、身を動かせば雑多な浮流物が体に触れるばかりである。それでも自分は手探り足探りに奥まで進み入った。浮いてる物は胸にあたる、顔にさわる。畳が浮いてる、箪笥が浮いてる、夜具類も浮いてる。それぞれの用意も想像以外の水でことごとく無駄に・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・それよりはむしろ小悪微罪に触れるさえ忍び得られないで独りを潔うする潔癖家であった。濁流の渦巻く政界から次第に孤立して終にピューリタニックの使命に潜れるようになったは畢竟この潔癖のためであった。が、ドウしてYに対してのみ寛大であったろう。U氏・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・一人、一人の魂に触れるということは、これ程、たしかなことはないからであろう。 ナロード主義が、空想的であって、マルクス主義が科学的である故に、前者に、大衆を獲得する力がないといって、貶することができるであろうか。 その時代の民衆作家・・・ 小川未明 「純情主義を想う」
・・・とさらに膝の相触れるまで近づいて、「そう聞きゃ一つ物は相談だが、どうです? お上さん、親方の遺言に私じゃ間に合いますめえか……」「畜生! 何言やがる」 お光はいきなり小机の上の香炉を取って、為さんの横ッ面へ叩きつけると、ヒラリ身を返・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 新聞を膝の上に拡げたままふんふんと聴いていたが、話が唇のことに触れると、いきなり、新聞がばさりと音を立て、続いて箸、茶碗、そしてお君の頬がぴしゃりと鳴った。声が先であとから大きな涙がぽたぽた流れ落ち、そんなおおげさな泣き声をあとに、軽・・・ 織田作之助 「雨」
・・・彼は別に法律に触れるようなことをしてる身に憶えないが、さりとて問い詰められては間誤つくようなこともあるだろうし、またどんな嫌疑で――彼の見すぼらしい服装だけでもそれに値いしないとは云えないのだから――「オイオイ! 貴様は! 厭に邸内をジロ/・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・そして旱の多かった夏にも雨が一度来、二度来、それがあがるたびごとにやや秋めいたものが肌に触れるように気候もなって来た。 そうした心の静けさとかすかな秋の先駆は、彼を部屋の中の書物や妄想にひきとめてはおかなかった。草や虫や雲や風景を眼の前・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
出典:青空文庫