・・・絨氈の与える触覚は存外毛皮に近いものだった。「この絨氈の裏は何色だったかしら?」――そんなこともわたしには気がかりだった。が、裏をまくって見ることは妙にわたしには恐しかった。わたしは便所へ行った後、そうそう床へはいることにした。 わたし・・・ 芥川竜之介 「夢」
・・・赤い芽は良平の指のさきに、妙にしっかりした触覚を与えた。彼はその触覚の中に何とも云われない嬉しさを感じた。「おおなあ!」 良平は独り微笑していた。すると金三はしばらくの後、突然またこんな事を云い始めた。「こんなに好いちんぼ芽じゃ・・・ 芥川竜之介 「百合」
・・・峻は善良な長い顔の先に短い二本の触覚を持った、そう思えばいかにも神主めいたばったが、女の子に後脚を持たれて身動きのならないままに米をつくその恰好が呑気なものに思い浮かんだ。 女の子が追いかける草のなかを、ばったは二本の脚を伸ばし、日の光・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・…… 実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりしたなんて私は不思議に思える――それがあの頃のことなんだから。 私はもう往来を軽やかな昂奮に弾んで、一種誇りかな気持・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・私はいつでも自分の触覚した感動だけを書いているのです。私は単純な、感激居士なのかも知れません。たとい、どんな小さな感動でも、それを見つけると私は小説を書きたくなったものですが、このごろ私の身辺にちっとも感動が無くなって完全に一字も書けなくな・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・だしぬけに私の視覚が地べたの無限の前方へのひろがりを感じ捕り、私の両足の裏の触覚が地べたの無限の深さを感じ捕り、さっと全身が凍りついて、尻餅ついた。私は火がついたように泣き喚いた。我慢できぬ空腹感。 これらはすべて嘘である。私はただ、雨・・・ 太宰治 「玩具」
・・・女性の皮膚感触の過敏が、氾濫して収拾できぬ触覚が、このような二、三の事実からでも、はっきりと例証できるのである。或る映画女優は、色を白くする為に、烏賊のさしみを、せっせとたべているそうである。あくまで之を摂取すれば、烏賊の細胞が彼女の肉体の・・・ 太宰治 「女人訓戒」
・・・盲人一流の芸者として当然の事なれども、触覚鋭敏精緻にして、琉球時計という特殊の和蘭製の時計の掃除、修繕を探りながら自らやって楽しんでいた。若き頃より歯が悪く、方々より旅の入歯師来れどもなかなかよき師にめぐり合う事なく、遂に自分で小刀細工して・・・ 太宰治 「盲人独笑」
・・・ それでもし生まれつき盲目でその上に聾な人間があったら、その人の世界はただ触覚、嗅覚、味覚ならびに自分の筋肉の運動に連関して生ずる感覚のみの世界であって、われわれ普通な人間の時間や空間や物質に対する観念とはよほど違った観念を持っているに・・・ 寺田寅彦 「物理学と感覚」
・・・例えてみれば視覚となづける意識は、分化の結果、触覚や味覚と差別がつくと、同時にあらゆる視覚的意識を統一する事ができて始めてできる言語であります。意識にこれだけの分化作用ができて、その分化した意識と、眼球と云う器械を結びつけて、この種の意識は・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
出典:青空文庫