・・・ないせいか、それとも頭がぼんやりしているせいか、平生はこうした場所で隣席の人たちの話している声はよく聞こえても、話している事がらの内容はちっともわからないのであるが、その日隣席で話している中老人二人の話し声の中でただ一語「イゴッソー」という・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・夜ふけるまで隣の室で低い話し声が聞こえていました。むすこはそれから三日目の晩食後に帰って行きましたが、その晩食の席で主婦がサンドウィッチをこしらえて新聞に包んでやりました。汽車の着くのは夜半だからといって、いちばん厚いパンの切れを選っていま・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・その話し声の中に突然「ナンジャモンジャ」という一語だけがハッキリ聞きとれた。同じ環境の中では人間はやはり同じことを考えるものと見える。 アラン・ポーの短編の中に、いっしょに歩いている人の思っていることをあてる男の話があるが、あれはいかに・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・ ある日回診の番が隣へ廻ってきたとき、いつもよりはだいぶ手間がかかると思っていると、やがて低い話し声が聞え出した。それが二三人で持ち合ってなかなか捗取らないような湿り気を帯びていた。やがて医者の声で、どうせ、そう急には御癒りにはなります・・・ 夏目漱石 「変な音」
・・・ 中庭を隔てた対向の三ツ目の室には、まだ次の間で酒を飲んでいるのか、障子に男女二個の影法師が映ッて、聞き取れないほどの話し声も聞える。「なかなか冷えるね」と、西宮は小声に言いながら後向きになり、背を欄干にもたせ変えた時、二上り新内を・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 彼等は昨夜、二時過ぎまで起きて騒いでいた。十時過ぎ目をさますと、ふき子は、「岡本さん、おひる、何にしましょう、海老のフライどう?」 話し声が、彼等のいるところまで響いた。「フライ、フライ!」 悌が最も素直に一同の希望を・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・それでいて別に話し声もしない。自分は廊下に、窓の方を頭にして横になった。 翌朝、平常どおり八時に出勤して来て凡そ十時頃から、やっと今野を病院へ入れる評定にとりかかった。主任が両手をポケットに入れてやって来て、「どんな工合かね」・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・その門の翼がパァラーで主人Sの話し声がし、右手ではK女史のア、ア、ア、ア、という発声練習が響いているという工合。家全体は異様に大時代で、目を瞠らせる。そして道を距てた前に民芸館と称する、同スタイルの大建築がまるで戦国時代の城のように建ちかけ・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ 入り口の石の上に見なれない下駄がそろえてあった、来た人が誰だか千世子には一寸想像がつかなかった、母親の居間で客の話し声が聞えた。 男にしては細い上っ皮のかすれた様な声をその人は持って居た。 千世子は自分の部屋に入ると懐のいろん・・・ 宮本百合子 「千世子(二)」
・・・ 廊下に足音と話し声とがする。戸が開く。渡辺の待っていた人が来たのである。麦藁の大きいアンヌマリイ帽に、珠数飾りをしたのをかぶっている。鼠色の長い着物式の上衣の胸から、刺繍をした白いバチストが見えている。ジュポンも同じ鼠色である。手には・・・ 森鴎外 「普請中」
出典:青空文庫