・・・その時分から冷静な兄は、彼がいくらいきり立っても、ほとんど語気さえも荒立てなかった。が、時々蔑むようにじろじろ彼の顔を見ながら、一々彼をきめつけて行った。洋一はとうとうかっとなって、そこにあったトランプを掴むが早いか、いきなり兄の顔へ叩きつ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 陳の語気には、相手の言葉を弾き除けるような力があった。「何もありません。奥さんは医者が帰ってしまうと、日暮までは婆やを相手に、何か話して御出ででした。それから御湯や御食事をすませて、十時頃までは蓄音機を御聞きになっていたようです。・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 時彦の語気は落着けり。「疾く死ねば可いと思うておって、なぜそんな真似をするんだな。」 と声に笑いを含めて謂えり。お貞はほとんど狂せんとせり。 病者はなおも和かに、「何、そう驚くにゃ及ばない。昨日今日にはじまったことでは・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ 巡査は重々しき語気をもて、「はいではない、こんな処に寝ていちゃあいかん、疾く行け、なんという醜態だ」 と鋭き音調。婦人は恥じて呼吸の下にて、「はい、恐れ入りましてございます」 かく打ち謝罪るときしも、幼児は夢を破りて、・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・ 仕事の邪魔された上に、よけいな汚らわしいものを見せられたといったような語気も見えて、先生はいろいろなことを言って聞かしたが、悄気きった眼の遣り場にも困っているらしい耕吉の態を気の毒にも思ったか、「しかし直入さんはあなたのお国の方へ・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・『イヤやはり泊らん方がよかろう』と私の言いますのを、打ち消すようにして武は、『実は今夜少しばかり話がありますから、それでお泊りなされというのだから、お泊りなされというたらお泊りなされ』と語気がやや暴ろうなって参りました。舌も少し廻り・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・小な心を今さら新に紛れさせながら、眼ばかりは見るものの当も無い天をじっと見ていた源三は、ふっと何の禽だか分らない禽の、姿も見えるか見えないか位に高く高く飛んで行くのを見つけて、全くお浪に対ってでは無い語気で、「禽は好いなア。」と呻き・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・と今は一切受付けぬ語気。男はこの様子を見て四方をきっと見廻わしながら、火鉢越に女の顔近く我顔を出して、極めて低き声ひそひそと、「そんなら汝、おれが一昨日盗賊をして来たんならどうするつもりだ。と四隣へ気を兼ねながら耳語き告ぐ。さす・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・ と答えた。語気がけわしく、さすがに緊張の御様子である。いつもの朝寝坊が、けさに限って、こんなに早くからお目覚めになっているとは、不思議である。芸術家というものは、勘の強いものだそうだから、何か虫の知らせとでもいうものがあったのかも知れ・・・ 太宰治 「十二月八日」
・・・妻はそのはがきを自分のところへ持ってきて、重吉さんもずいぶんのんきね、まだ始めませんって、いまに始められたひにゃ、だいじょうぶでもなんでもないじゃありませんか、冗談じゃあるまいし、と少しおこったような語気をもらした。自分にも重吉の用いたこの・・・ 夏目漱石 「手紙」
出典:青空文庫