・・・ 内蔵助は、いつに似合わない、滑な調子で、こう云った。幾分か乱されはしたものの、まだ彼の胸底には、さっきの満足の情が、暖く流れていたからであろう。「いや、そう云う訳ではございませんが、何かとあちらの方々に引とめられて、ついそのまま、・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・ こう矢継ぎ早やに尋ねられるに対して、若い監督の早田は、格別のお世辞気もなく穏やかな調子で答えていたが、言葉が少し脇道にそれると、すぐ父からきめつけられた。父は監督の言葉の末にも、曖昧があったら突っ込もうとするように見えた。白い歯は見せ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・丸で調子の変った声で医者はこう云って、慌ただしく横の方へ飛び退いた。「そんなはずはないじゃないか。」「電流。電流。早く電流を。」 この時フレンチは全く予期していない事を見て、気の狂う程の恐怖が自分の脳髄の中に満ちた。動かないよう・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・仮に今夜なら今夜のおれの頭の調子を歌うにしてもだね。なるほどひと晩のことだから一つに纏めて現した方が都合は可いかも知れないが、一時間は六十分で、一分は六十秒だよ。連続はしているが初めから全体になっているのではない。きれぎれに頭に浮んで来る感・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・蓋し僕には観音経の文句――なお一層適切に云えば文句の調子――そのものが難有いのであって、その現してある文句が何事を意味しようとも、そんな事には少しも関係を有たぬのである。この故に観音経を誦するもあえて箇中の真意を闡明しようというようなことは・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ こんな調子に、戯言やら本気やらで省作はへとへとになってしまった。おはまがよそ見をしてる間に、おとよさんが手早く省作のスガイ藁を三十本だけ自分のへ入れて助けてくれたので、ようやく表面おはまに負けずに済んだけれど、そういうわけだから実はお・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・というような調子でやって来て、帰った時にはその晩の勘定五円なにがしを払ってあったので、気の毒に思って、僕はすぐその宿を訪うと、まだ帰らないということであった。どこかでまた焼け酒を飲んでいるのだろうと思ったから、その翌朝を待って再び訪問すると・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・この時代を離れては緑雨のこの句の興味はないが、月落ち烏啼いての調子は巧みに当時の新らしい俳風を罵倒したもので、殊に「息を切らずに御読下し被下度候」は談林の病処を衝いた痛快極まる冷罵であった。 緑雨が初めて私の下宿を尋ねて来たのはその年の・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・そして、年子が、先生をたずねて、東京からきたということをおききなさると、急にお言葉の調子は曇りを帯びたようだったが、「それは、それは、よくいらしてくださいました。さあお上がりなさいまし。」と、ちょうど我が子が遠方から帰ってきたように、し・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・斬り落すような調子だった。 風が雨戸を敲いた。 男は分厚い唇にたまった泡を、素早く手の甲で拭きとった。少しよだれが落ちた。「なにが迷信や。迷信や思う方がどだい無智や。ちゃんと実例が証明してるやないか」 そして私の方に向って、・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫