・・・ ――これもまだ小学校にいた時分、彼は一人母につれられて、谷中の墓地へ墓参りに行った。墓地の松や生垣の中には、辛夷の花が白らんでいる、天気の好い日曜の午過ぎだった。母は小さな墓の前に来ると、これがお父さんの御墓だと教えた。が、彼はその前・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・けれども谷中へは中々来ない。可也長い葬列はいつも秋晴れの東京の町をしずしずと練っているのである。 僕の母の命日は十一月二十八日である。又戒名は帰命院妙乗日進大姉である。僕はその癖僕の実父の命日や戒名を覚えていない。それは多分十一の僕には・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・ あたしの家は谷中三崎町。」「君一人で住んでいるの?」「いいえ、お友だちと二人で借りているんです。」 わたしはこんな話をしながら、静物を描いた古カンヴァスの上へ徐ろに色を加えて行った。彼女は頸を傾けたまま、全然表情らしいものを示・・・ 芥川竜之介 「夢」
・・・ 青山の墓地と、谷中の墓地と所こそは変わりたれ、同一日に前後して相逝けり。 語を寄す、天下の宗教家、渠ら二人は罪悪ありて、天に行くことを得ざるべきか。 泉鏡花 「外科室」
・・・ S・S・Sの名が世間を騒がした翌る年、タシカ明治二十三年の桜の花の散った頃だった。谷中から上野を抜けて東照宮の下へ差掛った夕暮、偶っと森林太郎という人の家はこの辺だナと思って、何心となく花園町を軒別門札を見て歩くと忽ち見附けた。出来心・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・まだ暮れたばかりの初夏の谷中の風は上野つづきだけに涼しく心よかった。ごく懇意でありまたごく近くである同じ谷中の夫の同僚の中村の家を訪い、その細君に立話しをして、中村に吾家へ遊びに来てもらうことを請うたのである。中村の細君は、何、あなた、ご心・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ 谷中から駒込までぶらぶら歩いて帰る道すがら、八百屋の店先の果物や野菜などの美しい色が今日はいつもよりは特別に眼についた。骨董屋の店先にある陶器の光沢にもつい心を引かれて足をとめた。 とある店の棚の上に支那製らしい壷のようなもの・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・ 明治三十二年の夏、高等学校を卒業して大学にはいったのでちょうど四年目に再び上京した。谷中の某寺に下宿をきめるまでの数日を、やはり以前の尾張町のI家でやっかいになった。谷中へ移ってからも土曜ごとにはほとんど欠かさず銀座へ泊まりに行った。・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・日曜の午後に谷中へ行ってみると寛永寺坂に地下鉄の停車場が出来たりしてだいぶ昔と様子がちがっている。昔の御院殿坂を捜して墓地の中を歩いているうちに鉄道線路へ出たがどもう見覚えがない。陸橋を渡るとそこらの家の表札は日暮里となっている。昨日の雨で・・・ 寺田寅彦 「子規自筆の根岸地図」
・・・根津を抜けて帰るつもりであったが頻繁に襲って来る余震で煉瓦壁の頽れかかったのがあらたに倒れたりするのを見て低湿地の街路は危険だと思ったから谷中三崎町から団子坂へ向かった。谷中の狭い町の両側に倒れかかった家もあった。塩煎餅屋の取散らされた店先・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
出典:青空文庫