・・・たとえば谷間の椿を見ると、この島には桜も咲かないと云う。火山の頂の煙を見ると、この島には青い山もないと云う。何でもそこにある物は云わずに、ない物だけ並べ立てているのじゃ。一度なぞはおれと一しょに、磯山へ吾を摘みに行ったら、ああ、わたしはどう・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・別荘番の貸してくれた鎌で、山がかりに出来た庭裏の、まあ、谷間で。御存じでもあろうが、あれは爪先で刺々を軽く圧えて、柄を手許へ引いて掻く。……不器用でも、これは書生の方がうまかった。令夫人は、駒下駄で圧えても転げるから、褄をすんなりと、白い足・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・芝茸、松茸、しめじ、松露など、小笹の蔭、芝の中、雑木の奥、谷間に、いと多き山なれど、狩る人の数もまた多し。 昨日一昨日雨降りて、山の地湿りたれば、茸の獲物さこそとて、朝霧の晴れもあえぬに、人影山に入乱れつ。いまはハヤ朽葉の下をもあさりた・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・ うっかりしようものなら、冷い風が、小さな体をさらって、もう暗くなった谷間へたたき落とそうとしたのであります。 しんぱくは、そのたびに、頭をはげしく振りました。「いや、そのほうがいいでしょう。あなたたちは、岩穴の中でゆっくり眠り・・・ 小川未明 「しんぱくの話」
・・・西向きの家の前は往来を隔てた杉山と、その上の二千尺もあろうという坊主山で塞がれ、後ろの杉や松の生えた山裾の下の谷間は田や畠になっていて、それを越えて見わたされる限りの山々は、すっかり林檎畠に拓かれていた。手前隣りの低地には、杉林に接してポプ・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・若草山で摘んだ蕨や谷間で採った蕗やが、若い細君の手でおひたしやお汁の実にされて、食事を楽しませた。当もない放浪の旅の身の私には、ほんとに彼らの幸福そうな生活が、羨ましかった。彼らの美しい恋のロマンスに聴き入って、私はしばしば涙を誘われた。私・・・ 葛西善蔵 「遊動円木」
断片 一 夜になるとその谷間は真黒な闇に呑まれてしまう。闇の底をごうごうと溪が流れている。私の毎夜下りてゆく浴場はその溪ぎわにあった。 浴場は石とセメントで築きあげた、地下牢のような感じの共同湯であった・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・客はそのまま目を転じて、下の谷間を打ち見やりしが、耳はなお曲に惹かるるごとく、髭を撚りて身動きもせず。玉は乱れ落ちてにわかに繁き琴の手は、再び流れて清く滑らかなる声は次いで起れり。客はまたもそなたを見上げぬ。 廊下を通う婢を呼び止めて、・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ 別に不思議はない、“Man descends into the Vale of years.”『人は歳月の谷間へと下る』という一句が『エキスカルション』第九編中にあって自分はこれに太く青い線を引いてるではないか。どうせ・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・この坂を越しますと狭い谷間でありまして、そこに家が十軒とはないのです。だからこの坂を越すものは村の者でもたくさんはないのでござります。武の家は一軒の母屋と一軒の物置とありますが物置はいつも戸が〆切ってあってその上に崕から大きな樫の木がおっか・・・ 国木田独歩 「女難」
出典:青空文庫