・・・青侍は、爪で頤のひげを抜きながら、ぼんやり往来を眺めている。貝殻のように白く光るのは、大方さっきの桜の花がこぼれたのであろう。「話さないかね。お爺さん。」 やがて、眠そうな声で、青侍が云った。「では、御免を蒙って、一つ御話し申し・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・成程一本のマッチの火は海松ふさや心太艸の散らかった中にさまざまの貝殻を照らし出していた。O君はその火が消えてしまうと、又新たにマッチを摺り、そろそろ浪打ち際を歩いて行った。「やあ、気味が悪いなあ。土左衛門の足かと思った。」 それは半・・・ 芥川竜之介 「蜃気楼」
・・・が、幸その眼の方でも、しばらくは懸命の憎悪を瞳に集めて、やはりこちらを見返すようでしたが、見る見る内に形が薄くなって、最後に貝殻のようなまぶたが落ちると、もうそこには電柱ばかりで、何も怪しい物の姿は見えません。ただ、あの烏羽揚羽のような物が・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・頬張るあとから、取っては食い、掴んでは食うほどに、あなた、だんだん腹這いにぐにゃぐにゃと首を伸ばして、ずるずると鰯の山を吸込むと、五斛、十斛、瞬く間に、満ちみちた鰯が消えて、浜の小雨は貝殻をたたいて、暗い月が砂に映ったのです。と仰向けに起き・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・ お婆さんは、燈火のところで、よくその銭をしらべて見ますと、それはお金ではなくて、貝殻でありました。お婆さんは、騙されたと思うと怒って、家から飛び出して見ましたが、もはや、その女の影は、どちらにも見えなかったのであります。 その夜の・・・ 小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
・・・ 貝殻を敷いた細い穢い横町で、貧民窟とでもいいそうな家並だ。山本屋の門には火屋なしのカンテラを点して、三十五六の棒手振らしい男が、荷籠を下ろして、売れ残りの野菜物に水を与れていた。私は泊り客かと思ったら、後でこの家の亭主と知れた。「・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・あそこの浜辺に綺麗な貝殻がたくさんありますから、拾っていらっしゃいな」という。そんなに勢まないのだけれど、もうよそうとも言えないので、干し列べた平茎の中をぶらぶらと出て行く。 五六歩すると藤さんがまた呼びかける。「あなたお背に綿屑か・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ロオマ一ばんの貝殻蒐集家として知られていた。黒薔薇栽培にも一家言を持っていた。王位についてみても、かれには何だか居心地のわるい思いであった。恐縮であった。むやみ矢鱈に、特赦大赦を行った。わけても孤島に流されているアグリパイナと、ネロの身の上・・・ 太宰治 「古典風」
・・・私たちは、不相応の大きい貝殻の中に住んでいるヤドカリのようなもので、すぽりと貝殻から抜け出ると、丸裸のあわれな虫で、夫婦と二人の子供は、特配の毛布と蚊帳をかかえて、うろうろ戸外を這いまわらなければならなくなるのだ。家の無い家族のみじめさは、・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・きたない貝殻に附着し、そのどすぐろい貝殻に守られている一粒の真珠である。私は、ものを横眼で見ることのできぬたちなので、そのひとを、まっすぐに眺めた。十六、七であろうか。十八、になっているかも知れない。全身が少し青く、けれども決して弱ってはい・・・ 太宰治 「美少女」
出典:青空文庫