・・・ きょうもまたわたしの財布から一杯やる金を盗んでいったな!」 十分ばかりたった後、僕らは実際逃げ出さないばかりに長老夫婦をあとに残し、大寺院の玄関を下りていきました。「あれではあの長老も『生命の樹』を信じないはずですね。」 しば・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・川森は財布から五十銭銀貨を出してそれを妻の手に渡した。何しろ帳場につけとどけをして置かないと万事に損が行くから今夜にも酒を買って挨拶に行くがいいし、プラオなら自分の所のものを借してやるといっていた。仁右衛門は川森の言葉を聞きながら帳場の姿を・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・食いたいなあと思った時、ひょいと立って帽子を冠って出掛けるだけだ。財布さえ忘れなけや可い。ひと足ひと足うまい物に近づいて行くって気持は実に可いね。A ひと足ひと足新しい眠りに近づいて行く気持はどうだね。ああ眠くなったと思った時、てくてく・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・と、少しあれたが、しなやかな白い指を、縞目の崩れた昼夜帯へ挟んだのに、さみしい財布がうこん色に、撥袋とも見えず挟って、腰帯ばかりが紅であった。「姉さんの言い値ほどは、お手間を上げます。あの松原は松露があると、宿で聞いて、……客はたて込む、女・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・す、その効なく……博多の帯を引掴みながら、素見を追懸けた亭主が、値が出来ないで舌打をして引返す……煙草入に引懸っただぼ鯊を、鳥の毛の采配で釣ろうと構えて、ストンと外した玉屋の爺様が、餌箱を検べる体に、財布を覗いて鬱ぎ込む、歯磨屋の卓子の上に・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・上げた処、旦那まア聞いて下さい其の吉兵エが一昨日来やがって、村の鍛冶に打たせりゃ、一丁二十銭ずつだに、お前の鎌二十二銭は高いとぬかすんです、それから癪に障っちゃったんですから、お前さんの銭ゃお前さんの財布へしまっておけ、おれの鎌はおれの戸棚・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・ こう決心して、僕はなけなしの財布を懐に、相変らず陰欝な、不愉快な家を出た。否、家を出たというよりも、今の僕には、家をしょって歩き出したのだ。 虎の門そとから電車に乗ったのだが、半ば無意識的に浅草公園へ来た。 池のほとりをぶらつ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・その頃訴訟のため度々上府した幸手の大百姓があって、或年財布を忘れて帰国したのを喜兵衛は大切に保管して、翌年再び上府した時、財布の縞柄から金の員数まで一々細かに尋ねた後に返した。これが縁となって、正直と才気と綿密を見込まれて一層親しくしたが、・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・たまたまやさしそうな女の人が、少年のすわっている姿を見ると、前に立ち止まって、懐から財布をとり出して、銭を前に置いていってくれました。そんなときは、少年は気恥ずかしい思いがして、穴の中へでも入りたいような気がしましたが、早く温泉場へいって、・・・ 小川未明 「石をのせた車」
・・・そのはずみに、懐中の財布を落とすと、口が開いて、銀貨や、銅貨がみんなあたりにころがってしまったのでした。「あ、しまった!」と、按摩はあわてて両手で地面を探しはじめました。 指のさきは、寒さと、冷たさのために痛んで、石ころであるか、土・・・ 小川未明 「海からきた使い」
出典:青空文庫