・・・ 大抵な人は財布の底をはたいて、それを爺さんの手にのせて遣りました。私の乳母も巾着にあるだけのお金をみんな遣ってしまいました。 爺さんは金をすっかり集めてしまうと、さっきの箱の側へ行って、その上を二つ三つコンコンと叩きました。「・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・ 解せぬという顔だったが、やがて、あ、そうかと想い出して、「――いや、その積りはなかったんだが、はいってた筈の財布にうっかりはいっていなかったりはいっていても、雑誌社から来た為替だけだったりしてね、つい、立て替えさせてしまったんだね・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・ 新聞広告代など財布を叩き破っても出るわけはなく、看板をあげるにもチラシを印刷するにもまったく金の出どころはない。万策つきて考え出したのが手刷りだ。 辛うじて木版と半紙を算段して、五十枚か百枚ずつ竹の皮でこすっては、チラシを手刷りし・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・こちらが見てよくわかっているのにと思い、財布の銀貨を袂の中で出し悩みながら、彼はその無躾に腹が立った。 義兄は落ちついてしまって、まるで無感覚である。「へ、お火鉢」婦はこんなことをそわそわ言ってのけて、忙しそうに揉手をしながらまた眼・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・と親方は言いながら、財布から五十銭銀貨を三四枚取り出して「これで今夜は酒でも飲んで通夜をするのだ、あすは早くからおれも来て始末をしてやる。」 親方の行ったあとで今まで外に立っていた仲間の二人はともかく内へはいった。けれどもすわる所がない・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・磯は黙って腹掛から財布を出してお源に渡した。お源は中を査めて「たった二円」「ああ」「二円ばかし仕方が無いじゃアないか。どうせ前借するんだもの五円も借りて来れば可いのに」「だって貸さなきゃ仕方がない」「それゃそうだけど能く・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・ 二「財布を出して見ろ。」「はい。」「ほかに金は置いてないか。」「ありません。」「この札は、君が出したやつだろう。」 憲兵伍長は、ポケットから、大事そうに、偽札を取り出して示した。「さあ、ど・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・左右の手袋は分厚く重く、紐をつけた財布のように頸から吊るしていなければならない。銃は、その手袋の指の間から蝋をなすりつけたようにつるつる滑り落ちた。パルチザンはそこへつけこんできた。 兵士達は、始終過激派を追っかけ、家宅捜索をしたり、武・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・持って出た脚絆を締め、団飯の風呂敷包みをおのが手作りの穿替えの草鞋と共に頸にかけて背負い、腰の周囲を軽くして、一ト筋の手拭は頬かぶり、一ト筋の手拭は左の手首に縛しつけ、内懐にはお浪にかつてもらった木綿財布に、いろいろの交り銭の一円少し余を入・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ぜひなく財布のそこをはたきて船を雇えば、ひきちがえて客一人あり、いまいましきことかぎりなし。されどおもしろき景色にめでて煩悩も軽きはいとよし。松島の景といえばただただ、松しまやああまつしまやまつしまやと古人もいいしのみとかや、一ツ一ツやがて・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
出典:青空文庫