・・・それから財布のなかを調べて懐に入れ、チリ紙とタオルを枕もとに置いた。そういう動作をしているお前の妹の顔は、お前が笑うような形容詞を使うことになるが、紙のように蒼白だった。しかし、それは本当にしっかりした、もの確かな動作だったよ。特高が入って・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・煙草を吸いながら、遠い地平線のほうをいつまでも見ていらして、ああ、またはじまった、と私がはらはらしていますと、はたして、思いあまったような深い溜息をついて吸いかけの煙草を庭にぽんと捨て、机の引出しから財布を取って懐にいれ、そうして、あの、た・・・ 太宰治 「おさん」
・・・あの腹掛のドンブリに、古風な財布をいれて、こう懐手して歩くと、いっぱしの、やくざに見えます。角帯も買いました。締め上げると、きゅっと鳴る博多の帯です。唐桟の単衣を一まい呉服屋さんにたのんで、こしらえてもらいました。鳶の者だか、ばくち打ちだか・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・腰を下ろしたと思うと御主人が「や、しまった、財布を忘れた」といって懐を撫でまわしている。失礼ではあったが自分たちの盆の餅をすすめて、そうしてこの人たちから新築のホテルに関する噂を聞いた。この若く美しい夫人がスクリーンで見る某映画女優と区別の・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・ こんな事を識すのも今は落した財布の銭を数えるにも似ているであろう。 ○ 東京の郊外が田園の風趣を失い、市中に劣らぬ繁華熱閙の巷となったのは重に大正十二年震災あってより後である。 田園調布の町も尾久三河・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・『坊っちゃん』の中に、お清からもらった財布を便所へ落とすと、お清がわざわざそれを拾ってもってきてくれる条があった。僕は下女に金をもらった覚えはないが、財布の一条は実地の話だった。僕の幼友だちで今、名を知られている人は、山口弘一という人だけだ・・・ 夏目漱石 「僕の昔」
・・・むしろ貧相の方であって、六十年来持ち来ったつぎまぜの財布を孫娘の嫁入に譲ってやる方だ。して見ると福の神はこんな皺くちゃ婆さんを嫌うのであろうか。あるいは福の神はこの婆さんの内の門口まで行くのであるけれど、婆さんの方で、福なんかいらないという・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・なぜなら、この森が私へこの話をしたあとで、私は財布からありっきりの銅貨を七銭出して、お礼にやったのでしたが、この森は仲々受け取りませんでした、この位気性がさっぱりとしていますから。 さてみんなは黒坂森の云うことが尤もだと思って、もう少し・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・めいめいの財布は空となって、遂にほうり出されている形である。闇の循環で、細々生きているような生命の扱いかたをどんな婦人がよろこばしいと思うだろう。 婦人の道徳の頽廃が歎かれている。しかし、これとても、一方では、食物につながった社会問題な・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・おまけに虚の財布を持って町へ帰っているのである。実に骨牌と云うものはとんだ悪い物である。あれをしていると、大切な事を忘れてしまう。 ツァウォツキイはようよう鉄道の堤に攀じ上った。両方の目から涙がよごれた顔の上に流れた。顔の色は蒼ざめた。・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
出典:青空文庫