・・・宿屋の勘定も佐吉さんの口利きで特別に安くして貰い、私の貧しい懐中からでも十分に支払うことが出来ましたけれど、友人達に帰りの切符を買ってやったら、あと、五十銭も残りませんでした。「佐吉さん。僕、貧乏になってしまったよ。君の三島の家には僕の・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・私は貧しい悪作家であるが、けれども、やはり第一等の道を歩きたい。つねに大芸術家の心構えを、真似でもいいから、持っていたい。大芸術家とは、束縛に鼓舞され、障害を踏切台とする者であります、と祖父のジイドから、やさしく教えさとされ、私も君も共に「・・・ 太宰治 「鬱屈禍」
・・・かなりに貧しい暮しをしていたらしい。その時分の研学の仲間に南ロシアから来ている女学生があって、その後一九〇三年にこの人と結婚したが数年後に離婚した。ずっと後に従妹のエルゼ・アインシュタインを迎えて幸福な家庭を作っているという事である。 ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・それゆえにたとえば「貧しい部屋の中で」とか「歓喜に満ちて」とか、そんな漠然とした言葉を使ってもいいかもしれない。しかしいよいよ撮影を実行する前にはこれでは全く役に立たない。「貧しさ」を「映画の言葉」すなわち、これに相当する視覚的な影像に翻訳・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・市ヶ谷饅頭谷の貧しい町を通ると、三月の節句に近いころで、幾軒となく立ちつづく古道具屋の店先には、雛人形が並べてあったのを、お房が見てわたくしの袂を引いた。ほしければ買ってやろうというと、お房はもう娘ではあるまいし、ほしくはないと言ったので、・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・青いものは川端の柳ばかり、蝉の声をも珍しがる下町の女の身の末が、汽車でも電車でも出入りの不便な貧しい場末の町に引込んで秋雨を聴きつつ老い行く心はどんなであろう……何の気なしに思いつくと、自分は今までは唯淋しいとばかり見ていた場末の町の心持に・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・暗鬱な北国地方の、貧しい農家に生れて、教育もなく、奴隷のような環境に育った男は、軍隊において、彼の最大の名誉と自尊心とを培養された。軍律を厳守することでも、新兵を苛めることでも、田舎に帰って威張ることでも、すべてにおいて、原田重吉は模範的軍・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・もっと年よりの一人者があった訳だ。もっと貧しい、もっと人に嫌がられる者があった。その者を、彼女も婆やと呼んで、時には慈悲もかけてやれた。自分が決してどん底の者でないことが感じられていたのだが――沢やの婆が行ってしまったら、後に、誰か自分より・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・侵略された内部の皮膚は乾燥した白い細粉を全面に漲らせ、荒された茫々たる沙漠のような色の中で、僅かに貧しい細毛が所どころ昔の激烈な争いを物語りながら枯れかかって生えていた。だが、その版図の前線一円に渡っては数千万の田虫の列が紫色の塹壕を築いて・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・情熱、確信という点においては聴衆以上であるとしても、話すことの内容は反って聴衆の知識よりも貧しいであろう。それでも演説者のまわりに何か迷信の靄がかかっていれば、多くの宗教家や政治演説家がそうであるように、内容の貧弱な言葉をもってしても何かの・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫