・・・ なよやかな白い手を、半ば露顕に、飜然と友染の袖を搦めて、紺蛇目傘をさしかけながら、「貴下、濡れますわ。」 と言う。瞳が、動いて莞爾。留南奇の薫が陽炎のような糠雨にしっとり籠って、傘が透通るか、と近増りの美しさ。 一帆の濡れ・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・私、眠くなって了ったわ、だからアーメンと言ったら、貴下怒っちゃったじゃアありませんか。ねエ朝田様。」「そうですとも、だからその石は頗る妙、大いに面白しと言うんですねエ。」「神崎様、昨夕の敵打ちよ!」「たしかに打たれました。けれど・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・ 細川は直ちに起って室を出ると、突伏して泣いていた梅子は急に起て玄関まで送って来て、「貴下何卒父の言葉を気になさらないで……御存知の通りな気性で御座いますから!」とおろおろ声で言った。「イイエ決して気には留めません、何卒先生を御・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・というのは、実を言えば貴下と吉田さんにはそういった苦言をいつの日か聞かされるのではないかと、かねて予感といった風のものがあって、この痛いところをざくり突かれた形だったからです。然し、そう言いながらも御手紙は、うれしく拝見いたしました。そうし・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・そう言ったら、その先輩のお方も、なるほど、人から貴下の代表作は? と聞かれたとき、さあ、桜の園、三人姉妹なんか、どうでしょう、とつつましく答えることができるようだったら、いいねえ、としんみり答えたことでした。・・・ 太宰治 「正直ノオト」
・・・おそらく貴下の小説には、女の読者がひとりも無かった事と存じます。女は、広告のさかんな本ばかりを読むのです。女には、自分の好みがありません。人が読むから、私も読もうという虚栄みたいなもので読んでいるのです。物知り振っている人を、矢鱈に尊敬いた・・・ 太宰治 「恥」
・・・勾当は、ただちにその中山という人の宿を訪れて草々語らい、その琴の構造、わが発明と少しも違うところ無きを知り、かえって喜び、貴下は一日はやく註文したるものなれば、とて琴の発明の栄冠を、手軽く中山氏に譲ってやった。現在世に行われている「八雲琴」・・・ 太宰治 「盲人独笑」
・・・「始めて貴下の随筆『柿の種』を見初めまして今32頁の鳥や魚の眼の処へ来ました、何でもない事です。試みに御自分の両眼の間に新聞紙を拡げて前に突き出して左右の眼で外界を御覧になると御疑問が解決せられるのです。御試みありたし、」 ・・・ 寺田寅彦 「随筆難」
・・・この乱暴なる貴下の挙動に対し妾は弁解を求むる権利ありと存候。……こう云うのです。これがね策なんですよ」と云うから我輩も少々驚き入申しておるところだが、策って云うのはどんな策なんですと聞くと、先生いよいよ得意だ。ようござんすか、御手紙を書いて・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・今回の罷業に関し貴下を懲戒解傭の処分に附するの已むなきを得ざるに至りし事は遺憾至極に存じ候。然れども貴下の行動は恐らく本心より出でたるものにあらざるべしと思慮致候に付来る七日迄に復職願い出でられたる場合においては、当局々員として適当・・・ 宮本百合子 「電車の見えない電車通り」
出典:青空文庫