・・・それは少し薄ぎたないようなものであったせいか、長い間買い手もつかずそこに陳列されていた。これと始めのうちに同居していたたくさんの花瓶はだんだんに入り代わって行くのに、これだけは木守りの渋柿のように残っていた。ところがこのあいだ行って見ると、・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・ 普通教育を受けた人間には、もはやまっ昼間町中を大きな声を立てて歩くのが気恥ずかしくてできなくなるのか、売り声で自分の存在を知らせるだけで、おとなしく買い手の来るのを受動的に待っているだけでは商売にならない世の中になったのか、あるいはま・・・ 寺田寅彦 「物売りの声」
・・・そういう風な売手と買手のいきさつのなかには、私達を深く感動させるものがあります。一ルイでセザンヌの林檎ならばこそ三つ買って、ホクホクして帰る小さいパリーの勤人、屋根裏の住人の心持を考えると、セザンヌが何を力にあの困難も堪えたかということもわ・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・商人も今日の社会の新しい状態に入り切れずにいるし、買い手の方もそういうところがあって、例えば野菜ものにしろ共同購入を試みた隣組、或は隣組のそういう活動を鼓舞して組織した町会という実例を余り知らない。互いの関係から云えば、主婦たちが迅速に計画・・・ 宮本百合子 「主婦意識の転換」
・・・原稿が売れないで結構と考えている作家は一人もいない。買い手がなくても結構と云って書籍を出版し、雑誌の編集をしている人は一人もいない。その間に、競争がある。その競争に勝って一つでも一冊でも多く売れることが、利益を増すことであり、利益を増すよう・・・ 宮本百合子 「商売は道によってかしこし」
・・・ 自分の肖像 対照 大掃除 サイドボードを動かす 上の下らぬ大額をおろす。買い手が見つけられるから。「あれを買うって?」「本当?」「本当!」「へーえ、あれお父様ただ貰ったんだろう?」「そうじゃないらし・・・ 宮本百合子 「生活の様式」
谷崎潤一郎の小説に「卍」という作品がある。その本が一冊千円で売られる話をきいた。小売店では、いくらなんでもとあやぶんでいたところ案外に買手がある。今時の金は、ある所にはあるものだ、という驚きとむすびつけて話された。荷風もよ・・・ 宮本百合子 「文化生産者としての自覚」
・・・ 彼らは感じのなさそうな顔のぼんやりしたふうで、買い手の値ぶみを聞いて、売り価を維持している。あるいはまた急に踏まれた安価にまけて、買い手を呼び止める、買い手はそろそろ逃げかけたので、『よろしい、お持ちなされ!』 かれこれするう・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・たまに買い手があっても、値段の相談が調わない。宮崎は次第に機嫌を損じて、「いつまでも泣くか」と二人を打つようになった。 宮崎が舟は廻り廻って、丹後の由良の港に来た。ここには石浦というところに大きい邸を構えて、田畑に米麦を植えさせ、山では・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫