・・・彼は一月五円の貸間と一食五十銭の弁当とにしみじみ世の中が厭になると、必ずこの砂の上へグラスゴオのパイプをふかしに来る。この日も曇天の海を見ながら、まずパイプへマッチの火を移した。今日のことはもう仕方がない。けれどもまた明日になれば、必ずお嬢・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・ その突当りの、柳の樹に、軒燈の掛った見晴のいい誰かの妾宅の貸間に居た、露の垂れそうな綺麗なのが……ここに緋縮緬の女が似たと思う、そのお千さんである。 四 お千は、世を忍び、人目を憚る女であった。宗吉が世話に・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・船を降りた足で、いきなり貸間探しだった。旅館の客引きの手をしょんぼり振り切って、行李を一時預けにすると、寄りそうて歩く道は、しぜん明るい道を避けた。良いところだとはきいてはいたが夜逃げ同然にはるばる東京から流れて来れば、やはり裏通の暗さは身・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・兄さんたちさえ気にかけなければ、貸間に置いてあるんで経済は別だと言えばそれまでの話なんだから……」 その晩だいぶ酒の浸みたところで、惣治は兄に向ってこう言った。気まぐれな兄の性質が考えられるだけに、どうせ老父の家へ帰ったって居つけるもの・・・ 葛西善蔵 「贋物」
一 陽子が見つけて貰った貸間は、ふき子の家から大通りへ出て、三町ばかり離れていた。どこの海浜にでも、そこが少し有名な場所なら必ずつきものの、船頭の古手が別荘番の傍部屋貸をする、その一つであった。 ・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・レオニード・グレゴリウィッチが電車賃を節約するために勤め先と同じ区内にこの貸間を見つけたのであった。主人は請負師であったが、この男は家にいない。妻らしい女も見えなかった。階下には六畳、三畳、台所とある、日光のよくささないところに六十余の婆と・・・ 宮本百合子 「街」
出典:青空文庫