・・・ 髯ある者、腕車を走らす者、外套を着たものなどを、同一世に住むとは思わず、同胞であることなどは忘れてしまって、憂きことを、憂しと識別することさえ出来ぬまで心身ともに疲れ果てたその家この家に、かくまでに尊い音楽はないのである。「衆生既・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ところは寂びたり、人里は遠し、雨の小止をまたんよすがもなければ、しとど降る中をひた走りに走らす。ようやく寺尾というところにいたりたる時、路のほとりに一つ家の見えければ、車ひく男駆け入りて、おのれらもいこい、我らをもいこわしむ。男らの面を見れ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・押し分けられた葉の再び浮き上る表には、時ならぬ露が珠を走らす。 舟は杳然として何処ともなく去る。美しき亡骸と、美しき衣と、美しき花と、人とも見えぬ一個の翁とを載せて去る。翁は物をもいわぬ。ただ静かなる波の中に長き櫂をくぐらせては、くぐら・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・草は眼を走らす限りを尽くしてことごとく煙りのなかに靡く上を、さあさあと雨が走って行く。草と雨の間を大きな雲が遠慮もなく這い廻わる。碌さんは向うの草山を見つめながら、顫えている。よなのしずくは、碌さんの下腹まで浸み透る。 毒々しい黒煙りが・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・と云って手燭の火を消して美くしい思を一寸でもこわさない様にと云うようにつまさきで歩いて白い手で達者に走らすペンのさきを見ています。細い鵝ペンの先からは美くしい貴いこれまで母の見た事のない美くしい程立派な詩が生れて来ます。母の目はよろこびと驚・・・ 宮本百合子 「無題(一)」
出典:青空文庫