・・・ 上野に着きて少時待つほどに二時となりて汽車は走り出でぬ。熱し熱しと人もいい我も喞つ。鴻巣上尾あたりは、暑気に倦めるあまりの夢心地に過ぎて、熊谷という駅夫の声に驚き下りぬ。ここは荒川近き賑わえる町なり。明日は牛頭天王の祭りとて、大通りに・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ 十三日、明けて糠くさき飯ろくにも喰わず、脚半はきて走り出づ。清水川という村よりまたまた野辺地まで海岸なり、野辺地の本町といえるは、御影石にやあらん幅三尺ばかりなるを三四丁の間敷き連ねたるは、いかなる心か知らねど立派なり。戸数は九百ばか・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・ するとどこかで馬のいななくような声が聞こえたと思うと、放れ馬が行く手に走り出て道のまん中にたちふさがって鳴きました。その鳴き声に応ずる声がまた森の四方にひびきわたって、大地はゆるぎ、枝はふるい、石は飛びました。しかして途方にくれた母子・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・私はすぐに料亭から走り出て、夕闇の道をひた走りに走り、ただいまここに参りました。そうして急ぎ、このとおり訴え申し上げました。さあ、あの人を罰して下さい。どうとも勝手に、罰して下さい。捕えて、棒で殴って素裸にして殺すがよい。もう、もう私は我慢・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・魚容も真似して大きく輪を描いて飛びながら、脚下の孤洲を見ると、緑楊水にひたり若草烟るが如き一隅にお人形の住家みたいな可憐な美しい楼舎があって、いましもその家の中から召使いらしき者五、六人、走り出て空を仰ぎ、手を振って魚容たちを歓迎している様・・・ 太宰治 「竹青」
・・・さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。 私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。王の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。若い時から名・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・森山の宿に入り給えば、宿の者共云いけるは、『今夜馬の足音繁く聞ゆるは、落人にやあるらん、いざ留めん』とて、沙汰人数多出でける中に、源内兵衛真弘と云う者、腹巻取って打ち懸け、長刀持ちて走り出でけるが、佐殿を見奉り、馬の口に取り附き、『落人をば・・・ 太宰治 「花吹雪」
一、六つばかりの正月丁度旅順が陥落し、若かった母が、縁側に走り出、泣きながら「万歳!」と叫んだ時、私も夢中で「バンザイ!」と叫んでオイオイ泣いた。わけが分ってではない、母の感激に引き入れられたのでしょう。もう一つは、十六歳の・・・ 宮本百合子 「記憶に残る正月の思い出」
出典:青空文庫