・・・車のあとより車の多くは旅鞄と客とを載せて、一里先なる停車場を指して走りぬ。膳の通い茶の通いに、久しく馴れ睦みたる婢どもは、さすがに後影を見送りてしばし佇立めり。前を遶る渓河の水は、淙々として遠く流れ行く。かなたの森に鳴くは鶇か。 朝夕の・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・舷燈の光射す口をかなたこなたと転らすごとに、薄く積みし雪の上を末広がりし火影走りて雪は美しく閃めき、辻を囲める家々の暗き軒下を丸き火影飛びぬ。この時本町の方より突如と現われしは巡査なり。ずかずかと歩み寄りて何者ぞと声かけ、燈をかかげてこなた・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・つい、四五日前まで船に乗って渡っていた、その河の上を、二頭立の馬に引かれた馬車が、勢いよくがらがらと車輪を鳴らして走りだした。防寒服を着た支那人が通る。 サヴエート同盟の市街、ブラゴウエシチェンスクと、支那の市街黒河とを距てる「海峡」は・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・お先ッ走り! うるさいネ。」「そんならどうしたの? 誰か高慢チキな意地悪と喧嘩でもしたの。」「イイヤ。」「そんなら……」「うるさいね。」「だって……」「うるさいッ。」「オヤ、けんどんですネ、人が一生懸命になって訊・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・その中に一人ずつ入って、走り廻わる。――それを丁度扇の要に当る所に一段と高い台があって、其処に看守が陣取り、皆を一眼に見下している。 俺だちの関係で入ったものは、運動の時まで独りにされる。ゴッホの有名な、皆が輪になって歩き廻わっている「・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・魚たちは血眼になって走りまわりました。そして、やっとしまいにのこぎり魚が鍵のたばを口にくわえて出て来ました。鍵は海の底の岩と岩との間へ落ちこんでいたのでした。のこぎり魚はそこへ無理やりに首を突っこんで引き出したものですから、すっかりあごをい・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
北の国も真夏のころは花よめのようなよそおいをこらして、大地は喜びに満ち、小川は走り、牧場の花はまっすぐに延び、小鳥は歌いさえずります。その時一羽の鳩が森のおくから飛んで来て、寝ついたなりで日をくらす九十に余るおばあさんの家・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・少年は、その股引を買い求めようと、城下まち端から端まで走り廻りました。どこにも無いのです。あのね、ほら、左官屋さんなんか、はいているじゃないか、ぴちっとした紺の股引さ、あんなの無いかしら、ね、と懸命に説明して呉服屋さん、足袋屋さんに聞いて歩・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・直線運動としては囚徒や職工の行列、工作台上の滑走台、ジュアンヌの机の前の壁を走り上る数字の列等が著しいモチーフとして繰り返される。円形運動ではレコードや、ダイアルの回転があるほかに、新工場開場式のクライマックスに吹き起こる狂風の複雑な旋転的・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・帰りはまた聿駄天走りだ。自分の辛いよりか、朝から三時過ぎまでお粥も啜らずに待っている嬶や子供が案じられてなんねえ。」「兵隊にいっていた息子さんは、幾歳で亡くしましたね。」上さんは高い声で訊いた。「忰ですかね。」爺さんは調子を少し・・・ 徳田秋声 「躯」
出典:青空文庫