・・・ また母と一しょに帰る時など、二人とも出かける時ほどの元気はありませんで、峠を越す時、母は幾度となく休みます。思い出しますのはその時の母の顔でございます。石に腰をおろしてほっと呼吸を吐いて言うに言われん悲しげな顔つきをします、その顔つき・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・どうせ本式の盗棒なら垣根だって御門だって越すから木戸なんか何にもなりゃア仕ないからね」 と半分折れて出たのでお徳「そう言えばそうさ。だからお前さんさえ開閉を厳重に仕ておくれなら先ア安心だが、お前さんも知ってるだろう此里はコソコソ泥棒・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・彼は暗がりへ泥濘をはね越すように、身を寄せた。――が恵子ではなかった。ホッとすると、白分が汗をかいていたのを知った。ひとりで赤くなった。 龍介は街を歩く時いつも注意をした。恵子と似た前からくる女を恵子と思い、友だちといっしょに歩いていた・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・ ああ、いつもながらこの大川を越す瞬間のときめき。幻燈のまち。そのまちには、よく似た路地が蜘蛛の巣のように四通八達していて、路地の両側の家々の、一尺に二尺くらいの小窓小窓でわかい女の顔が花やかに笑っているのであって、このまちへ一歩踏みこむと・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・ 田畝を越すと、二間幅の石ころ道、柴垣、樫垣、要垣、その絶え間絶え間にガラス障子、冠木門、ガス燈と順序よく並んでいて、庭の松に霜よけの繩のまだ取られずについているのも見える。一、二丁行くと千駄谷通りで、毎朝、演習の兵隊が駆け足で通ってい・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・によって安全なる避難路が指示され、群集は落ち着き払ってその号令に耳をすまして静かに行動を起こし、そうして階段通路をその幅員尺度に応じて二列三列あるいは五列等の隊伍を乱すことなく、また一定度以上の歩調を越すことなく、軍隊的に進行すればみごとに・・・ 寺田寅彦 「火事教育」
・・・高阪橋を越す時東を見ると、女学生が大勢立っていると思ったが、それは海老茶色の葦を干してあるのであった。 寺田寅彦 「高知がえり」
・・・ 忽ち電車線路の踏切があって、それを越すと、車掌が、「劇場前」と呼ぶので、わたくしは燈火や彩旗の見える片方を見返ると、絵看板の間に向嶋劇場という金文字が輝いていて、これもやはり活動小屋であった。二、三人残っていた乗客はここで皆降りてしま・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・しかしその軽快鮮明なる事は俗曲と称する日本近代の音楽中この長唄に越すものはあるまい。 端唄が現す恋の苦労や浮世のあじきなさも、または浄瑠璃が歌う義理人情のわずらわしさをもまだ経験しない幸福な富裕な町家の娘、我儘で勝気でしかも優しい町家の・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・昨日までは擦れ合う身体から火花が出て、むくむくと血管を無理に越す熱き血が、汗を吹いて総身に煮浸み出はせぬかと感じた。東京はさほどに烈しい所である。この刺激の強い都を去って、突然と太古の京へ飛び下りた余は、あたかも三伏の日に照りつけられた焼石・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
出典:青空文庫