・・・伏目になって、いろいろの下駄や靴の先が並んだ乗客の足元を見ているものもある。何万円とか書いた福引の広告ももう一向に人の視線を引かぬらしい。婆芸者が土色した薄ぺらな唇を捩じ曲げてチュウッチュウッと音高く虫歯を吸う。請負師が大叭の後でウーイと一・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・「早く君に安心させようと思って、草山ばかり見つめていたもんだから、つい足元が御留守になって、落ちてしまった」「それじゃ、僕のために落ちたようなものだ。気の毒だな、どうかして上がって貰えないかな、君」「そうさな。――なに僕は構わな・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ 蛞蝓は一足下りながら、そう云った。「一体何だってんだ、お前たちは。第一何が何だかさっぱり話が分らねえじゃねえか、人に話をもちかける時にゃ、相手が返事の出来るような物の言い方をするもんだ。喧嘩なら喧嘩、泥坊なら泥坊とな」「そりゃ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・と、頓興な声を上げたので、一同その方を見返ると、吉里が足元も定まらないまで酔ッて入ッて来た。 吉里は髪を櫛巻きにし、お熊の半天を被ッて、赤味走ッたがす糸織に繻子の半襟を掛けた綿入れに、緋の唐縮緬の新らしからぬ長襦袢を重ね、山の入ッた紺博・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・偶には足許も見ては何うか。すると「いや、此儘で幸福だ」というような事がありはせんか、と、まア思うんだな。 私は何も仏を信じてる訳じゃないが、禅で悟を開くとか、見性成仏とかいった趣きが心の中には有る。そんなら今が幸福だと満足して、此上に社・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・(主人は手紙の束を死の足許これが己の恋の生涯だ。誠という物を嘲み笑って、己はただ狂言をして見せたのだ。恋ばかりではない。何もかもこの通りだ。意義もない、幸福もない、苦痛もない、慈愛もない、憎悪もない。死。阿房ものめが。好いわ。今この世の・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・見下せば千仭の絶壁鳥の音も聞こえず、足下に連なる山また山南濃州に向て走る、とでもいいそうなこの壮快な景色の中を、馬一匹ヒョクリヒョクリと歩んでいる、余は馬上にあって口を紫にしているなどは、実に愉快でたまらなかった。茱萸はとうとう尽きてしまっ・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・ 陽子の足許の畳の上へ胡坐を掻いて、小学五年生の悌が目醒し時計の壊れを先刻から弄っていた。もう外側などとっくに無くなり、弾機と歯車だけ字面の裏にくっついている、それを動かそうとしているのだ。陽子は少年らしい色白な頸窩や、根気よい指先を見・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 花壇の処まで帰った頃に、牝鶏が一羽けたたましい鳴声をして足元に駈けて来た。それと一しょに妙な声が聞えた。まるで聒々児の鳴くようにやかましい女の声である。石田が声の方角を見ると、花壇の向うの畠を為切った、南隣の生垣の上から顔を出している・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・灸はそのままころりと横になると女の子の足元の方へ転がった。 女の子は笑いながら手紙を書いている母親の肩を引っ張って、「アッ、アッ。」といった。 婦人は灸の方をちょっと見ると、「まア、兄さんは面白いことをなさるわね。」といって・・・ 横光利一 「赤い着物」
出典:青空文庫