・・・ 測夫の一人はもう四十年も昔からこの仕事をつづけているそうで、北はカラフトから南は台湾まで足跡を印しない土地は少ないのだそうである。テントの中で昼食の握り飯をくいながら、この測夫の体験談を聞いた。いちばん恐ろしかったのは奄美大島の中の無・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
・・・太十の姻戚も聚って見たが怪我人の倒れた側に太十の強く踏んだ足跡と其草履とがあったので到底逃げる処を打ったという事実の分疎は立たぬというのを聞いて皆悄れて畢った。其内怪我人の危険状態は経過した。然し全治までには長い時間を要すると医師は診断した・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・尾いて行きながら、圭さんの足跡の大きいのに感心している。感心しながら歩行いて行くと、だんだんおくれてしまう。 路は左右に曲折して爪先上りだから、三十分と立たぬうちに、圭さんの影を見失った。樹と樹の間をすかして見ても何にも見えぬ。山を下り・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・そして最後に、漸く人馬の足跡のはっきりついた、一つの細い山道を発見した。私はその足跡に注意しながら、次第に麓の方へ下って行った。どっちの麓に降りようとも、人家のある所へ着きさえすれば、とにかく安心ができるのである。 幾時間かの後、私は麓・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ だが、青年団、消防組の応援による、県警察部の活動も、足跡ほどの証拠をも上げることが出来なかった。 富豪であり、大地主であり、県政界の大立物である本田氏の、頭蓋骨にひびが入ったと云う、大きな事実に対して、証拠は夢であった。全で殴った・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・習 午前八時半より正午まで 除草、追肥 第一、七組 蕪菁播種 第三、四組 甘藍中耕 第五、六組 養蚕実習 第二組(午后イギリス海岸に於て第三紀偶蹄類の足跡標本を採収すべきにより希望者は参加・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・ 川岸を埋めた雪に、兎か何か獣の小さい足跡がズーとついている。川水は凍りかけである。 風景は、モスクワを出た当座の豊饒な黒土地方、中部シベリアの密林でおおわれた壮厳な森林帯の景色とまるで違い、寂しい極東の辺土の美しさだ。うちつづく山・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・道翹は身をかがめて石畳の上の虎の足跡を指さした。たまたま山風が窓の外を吹いて通って、うずたかい庭の落ち葉を捲き上げた。その音が寂寞を破ってざわざわと鳴ると、閭は髪の毛の根を締めつけられるように感じて、全身の肌に粟を生じた。 閭は忙しげに・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
・・・彼女の長い裳裾は、彼女の苦痛な足跡を示しつつ緞帳の下から憂鬱に繰り出されて曳かれていった。 ナポレオンの部屋の重々しい緞帳は、そのまま湿った旗のように明方まで動かなかった。五 その翌日、ナポレオンは何者の反対をも切り抜け・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・吾人はレマン湖畔シーヨンの城にこの七人の猛き霊的本能主義者の足跡の残れるを知る。 さらにルーテルを見よ、クリストを見よ、霊の高翔する時物質の苦を忍ぶはやすい事である。一生を衆人救済と贖罪とに送って十字架に血を流したる主エスはわが主義の証・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫