・・・ける、五時少し前でしたが、その時妙な事があったと云うのは、小僧の一人が揃えて出した日和下駄を突かけて、新刊書類の建看板が未に生乾きのペンキのにおいを漂わしている後から、アスファルトの往来へひょいと一足踏み出すと、新蔵のかぶっている麦藁帽子の・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ その蘆の根を、折れた葉が網に組み合せた、裏づたいの畦路へ入ろうと思って、やがて踏み出す、とまたきりりりりと鳴いた。「なんだろう」 虫ではない、確かに鳥らしく聞こえるが、やっぱり下の方で、どうやら橋杭にでもいるらしかった。「・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ 吉弥は片足を一歩踏み出すと同時に、あごをもよほど憎らしそうに突き出して、くやしがった。その様子が大変おかしかったので、一同は言い合わせたように吹き出した。かの女もそれに釣り込まれて、笑顔を向け、炉のそばに来て座を取った。 薬罐のく・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・その一歩を敢然と踏み出すためには、われわれは悪魔を呼ばなければならないだろう。裸足で薊を踏んづける! その絶望への情熱がなくてはならないのである。 闇のなかでは、しかし、もしわれわれがそうした意志を捨ててしまうなら、なんという深い安堵が・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
・・・ 叔母に言うことができないとすれば、お幸と二人で土地を逃げる他に仕方がないと一度は逃亡の仕度をして武の家に出かけましたが、それもイザとなって踏み出すことができませんでした。と申すのは、『これが女難だな』という恐ろしい考えが、次第次第にた・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ しかしなめらかな毛髪や顔や肉体の輪郭を基調とした線の音楽としてのほとんど唯一の形式は、やはり古い浮世絵の領域を踏み出す事は困難に思われる。後代の浮世絵の失敗の原因はこの領域を無理解に逸出した事にありはしないだろうか。 もしこの私の・・・ 寺田寅彦 「浮世絵の曲線」
・・・実際はやはり普通の講義や演習から非常なお蔭を蒙っていることは勿論であって、もしか当時そういう正規の教程を怠けてしまっていたらおそらく卒業後の学究生活の第一歩を踏出す力さえなかったに相違ない。講義も演習もいわば全く米の飯のようなもので、これな・・・ 寺田寅彦 「科学に志す人へ」
・・・世界の尽きる時が来ても、一寸もこの闇の外に踏み出すことは出来ぬ。そしていつまで経っても、死ぬと云うことは許されない。浮世の花の香もせぬ常闇の国に永劫生きて、ただ名ばかりに生きていなければならぬかと思うと、何とも知れぬ恐ろしさにからだがすくむ・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・そういう、鳥にとってはおそらく生れて以来かつて経験した事のない異常な官能行使の要求に応じるに忙しくて、身に迫る危険を自覚し、そうして逃走の第一歩を踏出すだけの余裕もきっかけもないのであろう。ともかくも運命の環は急加速度で縮まって行って、いよ・・・ 寺田寅彦 「鴫突き」
・・・しかしこの疑問以上に立ち入る事は科学者の領域以外に踏み出すと思う。 こんな事を書いて公にしようというについて一つ考えなければならぬ事がある。すなわちかくのごとき漠然たる議論を並べた結果、一部の読者には誤解を生じまた一部の学者からは独断の・・・ 寺田寅彦 「方則について」
出典:青空文庫