・・・そのまた海辺には人間よりも化け物に近い女が一人、腰巻き一つになったなり、身投げをするために合掌していた。それは「妙々車」という草双紙の中の插画だったらしい。この夢うつつの中の景色だけはいまだにはっきりと覚えている。正気になった時のことは覚え・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・ついこの間魚政の女隠居が身投げをした。――あの屍骸がどうしても上らなかったんだが、お島婆さんにお札を貰って、それを一の橋から川へ抛りこむと、その日の内に浮いて出たじゃないか。しかも御札を抛りこんだ、一の橋の橋杭の所にさ。ちょうど日の暮の上げ・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・……桔梗ヶ池へ身を沈める……こ、こ、この婆め、沙汰の限りな、桔梗ヶ池へ沈めますものか、身投げをしようとしたら、池が投げ出しましょう。」 と言って、料理番は苦笑した。「また、今時に珍しい、学校でも、倫理、道徳、修身の方を御研究もなされ・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・ ただし、そういった処で、あくる朝、町内の箔屋へ引取った身投げの娘が、果して昨夜私が見た人と同じだかどうだか、実の処は分りません……それは今でも分りはしない。堀端では、前後一度だって、横顔の鼻筋だって、見えないばかりか、解りもしない。が・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・へん、去年身投げをした芸者のような意気地なしではない。死んだッて、化けて出てやらア。高がお客商売の料理屋だ、今に見るがいい」と、吉弥はしきりに力んでいた。 僕は何にも知らない風で、かの女の口をつぐませると、それまでわくわくしていたお貞が・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ なんで身投げなどしたんじゃろかなと、女は自問し、この世がいやになったんでしょうかなと自答した。そして、この世がいやになるというようなことは、どんなに名のある人だったかは知らぬが、あさはかな人間のすることだというような顔をした。 私・・・ 黒島伝治 「短命長命」
・・・ 高浜、坂本、寒川諸氏と先生と自分とで神田連雀町の鶏肉屋へ昼飯を食いに行った時、須田町へんを歩きながら寒川氏が話した、ある変わり者の新聞記者の身投げの場面がやはり「猫」の一節に寒月君の行跡の一つとして現われているのである。 上野の音・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・ 美人と云われたけりゃ身投げしろと云われた下女の様な事を考えて居たのである。 家中は、畳の上まですっかり雑巾をかけられた。 風呂場の手拭では、どんな事をしたか知れたものでないと云うので、すっかり新らしいのに掛け換えられ、急に呼ば・・・ 宮本百合子 「盗難」
出典:青空文庫