・・・よって翁は下賤の悲しさに、御身近うまいる事もかない申さぬ。今宵は――」と云いかけながら、急に皮肉な調子になって、「今宵は、御行水も遊ばされず、且つ女人の肌に触れられての御誦経でござれば、諸々の仏神も不浄を忌んで、このあたりへは現ぜられぬげに・・・ 芥川竜之介 「道祖問答」
・・・で、両掌を仰向け、低く紫玉の雪の爪先を頂く真似して、「かように穢いものなれば、くどくどお礼など申して、お身近はかえってお目触り、御恩は忘れぬぞや。」と胸を捻じるように杖で立って、「お有難や、有難や。ああ、苦を忘れて腑が抜けた。もし、太夫・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・尉官は右手を差伸し、身近に行燈を引寄せつつ、眼を定めて読みおろしぬ。 文字は蓋し左のごときものにてありし。お通に申残し参らせ候、御身と近藤重隆殿とは許婚に有之候然るに御身は殊の外彼の人を忌嫌い候様子、拙者の眼に相見え候えば、・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・この二人に同時に会えたというのも偶然といえば偶然だが、しかしそれだけに千日前が身近かに寄って来たという感じだった。 焼けた大阪劇場も内部を修理して、もう元通りの映画とレヴュが掛っていた。常盤座ももう焼けた小屋とは見えず、元の姿にかえって・・・ 織田作之助 「神経」
・・・ひしひしと身近かに来るのは、ただ今夜を越す才覚だった。 喫茶店で一円投げ出して、いま無一文だった。家に現金のある筈もない。階下のゆで玉子屋もきょうこの頃商売にならず、だから滞っている部屋代を矢のような催促だった。たまりかねて、暮の用意に・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・と言ってもなんだか頼りない男がそんなことを言って焼け残った骨をつついている焼場の情景を思い浮かべることができるのだったが、その女がその言葉を信じてほかのものではない自分の弟の脳味噌の黒焼きをいつまでも身近に持っていて、そしてそれをこの病気で・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・ 樫鳥が何度も身近から飛び出して私を愕ろかした。道は小暗い谿襞を廻って、どこまで行っても展望がひらけなかった。このままで日が暮れてしまってはと、私の心は心細さでいっぱいであった。幾たびも飛び出す樫鳥は、そんな私を、近くで見る大きな姿で脅・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・をお読みになって、原作の、女房、女学生、亭主の三人の思いが、原作に在るよりも、もっと身近かに生臭く共感せられたら、成功であります。果して成功しているかどうか、それは読者諸君が、各々おきめになって下さい。 私の知合いの中に、四十歳の牧師さ・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・私は力を感じたので、その二匹の馬が私をすぐ身近に放置してきっぱりと問題外にしている無礼に対し、不満を覚える余裕さえなかった。 もう一匹の赤い馬を見た。あるいは同じ馬であったかも知れぬ。針仕事をしていたようであった。しばらくしては・・・ 太宰治 「玩具」
・・・どうも朝は、過ぎ去ったこと、もうせんの人たちの事が、いやに身近に、おタクワンの臭いのように味気なく思い出されて、かなわない。 ジャピイと、カア(可哀想と、二匹もつれ合いながら、走って来た。二匹をまえに並べて置いて、ジャピイだけを、うんと・・・ 太宰治 「女生徒」
出典:青空文庫