・・・苦しんでいる人間をして飽くまで苦しませるという事は、その人間が軈て何物かに突当る事を得せしむるものだ。半途でそれを救うとしたならば、その人間は終に行く所まで行かずして仕舞う。凡ての窮局によって人間は初めてある信仰に入る。自ら眼覚める。今の世・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・たゞ人間の理想も幸福もみな刹那的なもので、軈て最後は絶滅すると云う、永久に変ることのない、亡びるものゝ悩みがある。昔から虚無の思想に到達したものは歓喜を見ない。ニヒリストの姿は寂しい。 また別に「いくら働いても人間の生活はよくならぬ、人・・・ 小川未明 「波の如く去来す」
・・・六百円の保証金を軈て千五百円まで値上げしても、なお支店長応募者が陸続……は大袈裟だが、とにかくあとを絶たなかった一事を以ってしてもわかるように、――むろん薬もおかしいほど売れた。 効いたから、売れたのではない。いうまでもなく、広告のおか・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・澁い枳の実は霜の降る度に甘くなって、軈て四十雀のような果敢ない足に踏まれても落ちるようになる。幼いものは竹藪へつけこんでは落ち葉に交って居る不格好な実を拾っては噛むのである。太十も疱瘡に罹るまでは毎日懐へ入れた枳の実を噛んで居た。其頃はすべ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ちっとも語調に真情がない、―― 軈て発車した。 私は眠い。一昨日那須温泉から帰って来、昨日一日買いものその他に歩き廻って又戻って行こうとしているのだから。それに窓外の風景もまだ平凡だ。僅かとろりとした時、隣りの婆さんが、後の男に呼び・・・ 宮本百合子 「一隅」
・・・一太が竹格子から見ていると、忠公も軈て一太を見つける。忠公は腕白者で、いつか、「一ちゃんとこのおっかあ男だぜ、おかしいの! チッだ!」と云った。「違うよ、男じゃありませーんよだ」「じゃ何故ツメオって云うんだい、オの字のつくの・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・彼は軈て、ドタドタ勢よく階子をかけ降りざま、玄関に出た。「小銭がなあいよ」 愛は、「偉い元気!」と笑い乍ら、茶箪笥の横にあった筈の自分の銀貨入れをみつけた。覚え違いと見え、二三枚畳んで置いてあった新聞の間にも見当らない。下駄・・・ 宮本百合子 「斯ういう気持」
・・・然し、其は軈て彼等のギロチンになりますでしょう。若い女性、従来若いと云えば、直ちに幼稚な頭脳、浅い判断と云う追従語によって形容された青年は、少くとも、生命に満ちた心其もので現代の不安を感じて居ります。魂を強め、生活に力を与える暗示を得る事は・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・――軈てそれを観に自分たちも室を去った。 三 風がきつい。石油が細いピストンのようなものの間から吹き出して、私のブラウズの胸にかかった。おやと云っているまにもう風に散らされ、しみが微かにのこったばかりである・・・ 宮本百合子 「石油の都バクーへ」
・・・ 軈て、書庫に導かれた。窓際の硝子蓋の裡に天正十五年の禁教令出島和蘭屋敷の絵巻物、対支貿易に使用された信牌、航海図、切支丹ころびに関する書類、有名なフェートン号の航海日誌、ミッション・プレス等。左の硝子箱に、シーボルト着用の金モウル附礼・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
出典:青空文庫