・・・正木大尉は正木大尉で強い香のする刻煙草を巻きながら、よく「軍隊に居た時分」を持ち出す。時には、音吉が鈴を振鳴しても、まだ皆な火鉢の側に話し込むという風であった。「正木さん、一寸この眼鏡を掛けて御覧なさい」「まだ私は老眼鏡には早過ぎる・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ 三日には東京府、神奈川、静岡、千葉、埼玉県に戒厳令が布かれ、福田大将が司令官に任命されて、以上の地方を軍隊で警備しはじめました。そのため、東京市中や市外の要所々々にも歩哨が立ち、暴徒しゅう来等の流言にびくびくしていた人たちもすっかり安・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・私が夜おそく通りがかりの交番に呼びとめられ、いろいろうるさく聞かれるから、すこし高めの声で、自分は、自分は、何々であります、というあの軍隊式の言葉で答えたら、態度がいいとほめられた。 作家は、いよいよ窮屈である。何せ、眼光紙背に徹する読・・・ 太宰治 「一歩前進二歩退却」
・・・永く満洲で軍隊生活をして、小さい時からの乱暴者の由で、骨組もなかなか頑丈の大男らしく、彼は、はじめてその話をケイ子から聞かされた時には、実に、いやあな気持がした。どうも、この、恋人の兄の軍曹とか伍長とかいうものは、ファウストの昔から、色男に・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・そのはっきり言うのは、軍隊で命令をしつけているからである。 チルナウエルは地図、旅行案内、紹介状、旅行券を受け取った。紹介状はどこで誰に渡せと云うことを、一々はっきり言い附けられた。そして少からぬ金額を旅費として受け取った。最後に暇乞を・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ 軍隊生活の束縛ほど残酷なものはないと突然思った。と、今日は不思議にも平生の様に反抗とか犠牲とかいう念は起こらずに、恐怖の念が盛んに燃えた。出発の時、この身は国に捧げ君に捧げて遺憾がないと誓った。再びは帰ってくる気はないと、村の学校で雄・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・特に言語などを機械的に暗記する事の下手な彼には当時の軍隊式な詰め込み教育は工合が悪かった。これに反して数学的推理の能力は早くから芽を出し初めた。計算は上手でなくても考え方が非常に巧妙であった。ある時彼の伯父に当る人で、工業技師をしているヤー・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・こういうふうに人間の個性をなくしているところは全く軍隊式である。年じゅうこのとおりだったら梟やたぬきのような種類の人間にはさぞ都合が悪いことであろうと思われたのであった。これはこの映画を見たときにちょっとそう思ったことである。 この映画・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・○○師団長も終に怒った。軍隊の命令は、総て、天皇陛下のお言渡しと心得ろと然う言って叱って返した。秋山さんも、何うも為方がねえ。 尤も奥さんの綾子さんの方でも、随分気はつけていた。遺書のようなものを、肌を離さずに持っていたのを、どうかした・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ それから、法則というものは社会的にも道徳的にもまた法律的にもあるが、最も劇しいのは軍隊である。芸術にでも総てそういうような一種の法則というものがあって、それを守らなければならぬように周囲が吾人に責めるのであります。一方ではイミテーショ・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
出典:青空文庫