・・・それの安定を保つためには、微妙な数理によって組み建てられた、支柱の一つ一つが必要であり、それの対比と均斉とで、辛うじて支えているのであった。しかも恐ろしいことには、それがこの町の構造されてる、真の現実的な事実であった。一つの不注意な失策も、・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・そして、累卵の危きにあるを辛うじて護る事が出来た。小作人どもは、ワイワイ云ってるだけで、何とも手の下しようがなかった。大抵目ぼしい、小作人組合の主だった、は、残らず町の刑務所へ抛り込まれてしまった。「これで、当分は枕を高くして寝られる」・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・よし辛うじてこの目的を達したところで最早その上に面白く書くという余地はないはずであるが、楽天の紀行は毎日必ず面白い処が一、二個処は存じて居る。これが始めに徒歩旅行を見た時に余が驚嘆して措かなかった所以である。つまり徒歩旅行は必要と面白味とを・・・ 正岡子規 「徒歩旅行を読む」
・・・ただ俳句十七字の小天地に今までは辛うじて一山一水一草一木を写し出だししものを、同じ区劃のうちに変化極まりなく活動止まざる人世の一部分なりとも縮写せんとするは難中の難に属す。俳句に人事的美を詠じたるもの少きゆえんなり。芭蕉、去来はむしろ天然に・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・それは例の如く板の上に紙を張りつけて置いてモデルの花はその板と共に手に持って居るので、その苦しいことはいうまでもないが、痲痺剤を飲んで痛みが減じて居る時に殆ど仰向になって辛うじて書いて見たのである。二、三年前でさえ線がゆがんだり形が曲ったり・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・右隊入場、著しく疲れ辛うじて歩行す。曹長「七時半なのにどうしたのだろうバナナン大将はまだ来ていない七時半なのにどうしたのだろうバナナン大将は 帰らない。」左隊登場 最労れたり。曹長・・・ 宮沢賢治 「饑餓陣営」
・・・陽子は膳の飯を辛うじて流し込んだ。 三 庭へ廻ると、廊下の隅に吊るした鸚哥の籠の前にふき子が立っている。紫っぽい着物がぱっと目に映えて、硝子越し、小松の生えた丘に浮かんで花が咲いたように見えた。陽子は足音を忍ば・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・それからあとプロレタリア文化文学運動の圧殺されたのち、『冬を越す蕾』『明日への精神』が、辛うじて出版された時代の文章は、どうだろう。それはすべて奴隷の言葉、奴隷の表現でかかれなければならなかった。文章は曲線的で、暗示的で、常に半分しか表現し・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第九巻)」
・・・をのぞいて、一九三二年から一九四五年八月まで、進歩的な一人の婦人作家が自由な声をあげようとすると口を抑えられ、少し動こうとすると、すぐその自由を奪われている間々に、口を抑える指のすきから、辛うじて自由が身に戻っている僅かの時間に物語った物語・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第四巻)」
・・・やっと正気に戻ったイレーネは辛うじてききとれる声で「恥しいわ」と答える。そして、「このことママには云わないでね、ママのために云わないでね」「ああママは結婚したって、やっぱり私たちのママよ!」姉妹は再び泣き笑いながら、擁きあった互の頬を重ね合・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
出典:青空文庫