・・・ たといそれは辞令にしても、猛烈な執着はないに違いない。猛烈な、――たとえばその浪花節語りは、女の薄情を憎む余り、大怪我をさせたという事だろう。僕は小えんの身になって見れば、上品でも冷淡な若槻よりも、下品でも猛烈な浪花節語りに、打ち込むのが・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・ が、辞令も革鞄に封じました。受持の室の扉を開けるにも、鍵がなければなりません。 鍵は棄てたんです。 令嬢の袖の奥へ魂は納めました。 誓って私は革鞄を開けない。 御親類の方々、他に御婦人、紳士諸君、御随意に適当の御制裁、・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・――活版刷りの美麗な辞令だった。 そして、待機していると、世間は広いものだ。一生妻子を養うことが出来れば、六百円の保証金も安いものだと胸算用してか、大阪、京都、神戸をはじめ、東は水戸から西は鹿児島まで、ざっと三十人ばかりの申し込みがあっ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・私には社交の辞令が苦手である。いまこの青年が私から煙草の火を借りて、いまに私に私の吸いかけ煙草をかえすだろう、その時、この産業戦士は、私に対して有難うと言うだろう。私だって、人から火を借りた時には、何のこだわりもなく、有難うという。それは当・・・ 太宰治 「作家の手帖」
・・・ それは、もはや、軽薄なる社交辞令ではなかった。私は、しんからそれ一つに期待をかけた。 しかし、その最後のものまで、むざんに裏切られた。 山川草木うたたあ荒涼 十里血なまあぐさあし新戦場 しかも、後半は忘れた・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・ ところがおれの受け取ったのは、勲章でもなければ、大臣の辞令でもない。例の襟である。極右党の先生が御丁寧にも札を附けてくれた。こんな事が書いてある。「露国の名誉ある貴族たる閣下に、御遺失なされ候物品を返上致す機会を得候は、拙者の最も光栄・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・修学証書や辞令書のようなものの束ねたのを投げ出すと黴臭い塵が小さな渦を巻いて立ち昇った。 定規のようなものが一把ほどあるがそれがみんな曲りくねっている。升や秤の種類もあるが使えそうなものは一つもない。鏡が幾枚かあるがそれらに映る万象はみ・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・その言葉は今全く忘れているが、普通にありふれた空虚な辞令でなかったのはたしかである。むしろ双方で無愛想に頭を下げたのだったろうが、自分の事は分らないから、相手の容子だけに驚くのである。文学者だから御世辞を使うとすると、ほかの諸君にすまないけ・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・元来国と国とは辞令はいくらやかましくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、ごまかしをやる、ペテンにかける、めちゃくちゃなものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなけれ・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・それからその辞令をみんなに一人ずつ見せて挨拶してあるき、おしまいに会計に行きましたら、会計の老人はちょっと渋い顔付きはしていましたが、だまってわたくしの印を受け取って大きな紙幣を八枚も渡してくれました。ほかに役所の大きな写真器械や双眼鏡も借・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
出典:青空文庫