・・・するとある農家の前に栗毛の馬が一匹繋いである。それを見た半之丞は後で断れば好いとでも思ったのでしょう。いきなりその馬に跨って遮二無二街道を走り出しました。そこまでは勇ましかったのに違いありません。しかし馬は走り出したと思うと、たちまち麦畑へ・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・この地方の蒙った惨害の話から農家一般の困窮で、老人の窮状をジャスティファイしてやりたいと思ったのである。 すると、その話の途中で、老道士は、李の方へ、顔をむけた。皺の重なり合った中に、可笑しさをこらえているような、筋肉の緊張がある。・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・よその農家でこの凶事があったら少くとも隣近所から二、三人の者が寄り合って、買って出した酒でも飲みちらしながら、何かと話でもして夜を更かすのだろう。仁右衛門の所では川森さえ居残っていないのだ。妻はそれを心から淋しく思ってしくしくと泣いていた。・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 今度はね、大百姓……古い農家の玄関なし……土間の広い処へ入りましたがね、若い人の、ぴったり戸口へ寄った工合で、鍵のかかっていないことは分っています。こんな蒸暑さでも心得は心得で、縁も、戸口も、雨戸はぴったり閉っていましたが、そこは古い・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 幼い時聞いて、前後うろ覚えですが、私の故郷の昔話に、(椿農家のひとり子で、生れて口をきくと、と唖の一声ではないけれども、いくら叱っても治らない。弓が上手で、のちにお城に、もののけがあって、国の守が可恐い変化に悩まされた時、自から進んで・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・三方岡を囲らし、厚硝子の大鏡をほうり出したような三角形の小湖水を中にして、寺あり学校あり、農家も多く旅舎もある。夕照りうららかな四囲の若葉をその水面に写し、湖心寂然として人世以外に別天地の意味を湛えている。 この小湖には俗な名がついてい・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 淡島氏の祖の服部喜兵衛は今の寒月から四代前で、本とは上総の長生郡の三ヶ谷の農家の子であった。次男に生れて新家を立てたが、若い中に妻に死なれたので幼ない児供を残して国を飛出した。性来頗る器用人で、影画の紙人形を切るのを売物として、鋏一挺・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ この命令に押し飛ばされて、二人はゴムマリのように隊を飛び出すと、泡を食って農家をかけずり廻った。 ところが、二人はもともと万年一等兵であった。その証拠には浪花節が上手でも、逆立ちが下手でも、とにかく兵隊としての要領の拙さでは逕庭が・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・ そして構造の大きな農家らしき家の前に来ると、庭先で「左様なら」と挨拶して此方へ来る女がある、その声が如何にもお正に似ているように思われ、つい立ちどまって居ると、往来へ出て月の光を正面に向けた顔は確かにお正である。「お正さん」大友は・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・堅田隧道の前を左に小径をきり坂を越ゆれば一軒の農家、山の麓にあり。一個の男、一個の妻、二個の少女麦の肥料を丸めいたり。少年あり、藁を積み重ねし間より頭を出して四人の者が余念なく仕事するを余念なくながめいたり。渡頭を渡りて広き野に出ず。野は麦・・・ 国木田独歩 「小春」
出典:青空文庫